実録・日本共産党

文字サイズ

―その恐るべき素顔と歴史を探る―
思想新聞より

実録・日共産党

58
戦後編46

反天皇キャンペーンに狂奔
昭和天皇崩御を利用する

 昭和天皇は1988(昭和63)年9月19日に病に伏されてご重体に陥られました。国民はこぞってご快癒を願い、皇居やお見舞いの記帳所に連日、列をつくりましたが、翌89年1月7日に崩御されました。

『赤旗』紙面に罵倒記事を満載
 これに対して共産党はその正体を露わにして「反天皇」キャンペーンに狂奔しました。共産党の機関紙『赤旗』は昭和天皇がご重体に陥られると、露骨に「反天皇」記事を書き始めました。
 88年9月24日付には「現天皇は侵略戦争と人権抑圧の責任者」「天皇は憲法に定められた国事行為を逸脱して、広島への原爆投下など反動的な立場で政治に関与してきた」などと攻撃。さらに国民のお見舞いが続くと、「異常な天皇美化、礼賛」(同25日付)「病状悪化利用した新たな策動」(同26日付)と論じました。
 10月に入ると攻撃はさらにエスカレートします。9日付『赤旗』日曜版の「緊急特集・天皇を考える」は大見出しで「沖縄を地獄の戦場にした天皇」「いまもうなされる集団自決、住民虐殺の恐怖」とし、記事には「昭和20年の沖縄戦で天皇の軍隊による虐殺が行われた。いったいだれのせいか。天皇の責任だ。なのに『すまなかった』の一言もない。天皇の美化など許されない」「天皇を批判する日本共産党の主張が世界の常識」などと、昭和天皇をおとしめるような内容を羅列しています。
 こればかりか「天皇は、ナチスにも匹敵する非人間的な人権抑圧を行った」(9日付)「天皇ヒロヒトは少年までアジア侵略に駆り立てた。戦争責任認め、謝れ」(11日付)と、聞くに耐えない悪口雑言を並べたてました。
 共産党の天皇攻撃は『赤旗』紙面だけに終わりません。昭和天皇ご重体直後に全国の各自治体は、ご快癒祈願の決議やお見舞い記帳所を設置しましたが、共産党はこれを憲法違反だとして猛反対し、自治体の中には共産党の圧力で記帳所が撤去するところまで出てきました。
 さらに共産党はフロント組織を総動員して反天皇キャンペーンを展開します。各地で集会を開かせたり、声明を発表させたりしました。共産党系遺族団体の代表は「天皇は戦争犠牲者にたいして一言も謝罪していない。死ぬならば、戦争責任を認め、一言わびてから死ね、と言いたい」(『赤旗』10月20日付)とまで述べています。
 共産党が天皇制を破壊しようとしていることはこうした発言からはっきりとわかります。もともと共産党は天皇制を破壊するために結成された政党です。1922(大正11)年の創立当時の綱領には「天皇の政府の転覆および君主制の廃止」がうたわれ、現綱領でも天皇制は「アメリカ帝国主義と日本独占資本の政治的思想的支配と軍国主義復活の道具」と定義し、一貫して天皇制破壊をめざしています。
 八八年から八九年にかけて国民が天皇陛下のご快癒を願っているときに、共産党は絶好の天皇攻撃の時期と位置づけたのです。党員向けの『赤旗』(学習・党活動版)10月11日付は次のように檄を飛ばします。
 「天皇問題をめぐるたたかいは、歴史的な重大なたたかいである。…すべての共産党員は、徹底した闘士である共産主義者の自覚と決意にたって、歴史的たたかいに総決起しよう」

崩御記事も天皇を誹謗
 翌年1月7日、天皇陛下は崩御されました。すると翌8日の『赤旗』の1面コラム欄には次のような一文を載せました。
 「どんな罪人も、死ぬときは涙するものだ、と。どうでしょうか。少なくとも、天皇・裕仁(ひろひと)は違いました。彼はひとことのわびもなく、いってしまいまいた。…ヒトラーが自殺し、ムソリーニが処刑されるなか彼は命ごいして生きのびました…もしあの世というものがあるなら『天皇の御為に』と死んでいった人たちは、何といって、彼を迎えるでしょうか」
 これが共産党の本音です。反天皇、天皇制破壊の正体を昭和天皇崩御で見せつけたのです。