実録・日本共産党

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―その恐るべき素顔と歴史を探る―
思想新聞より

実録・日共産党

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政策編・1
革命のための外交
共産大国依存の反米路線

 前回まで日本共産党の歴史をさぐってきました。今回からは政策を歴史的に検証します。まずは外交・安保政策からです。
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 共産党の外交・安保政策は二つの特徴があります。

外交政策の2つの特徴
 第一は国際共産主義とどう関わるかということであり、第二は米国をどう見るか、ということです。前者は「共産主義」の身内の問題であり、後者は「帝国主義・資本主義」の牙城に対する姿勢です。これこそ日本共産党の性格を知るリトマス紙といえます。
 国際共産主義については、もともと共産党はコミンテルン(国際共産党)日本支部として発足しました(1922年)。ですから、国際共産主義の呪縛から逃れることができません。これがまさに共産党の“原罪”であり、その遺伝子を今も引き継いでいるといっても過言ではないでしょう。
 戦前そして戦後の1955年までは国際共産主義はソ連とりわけスターリンを中心として団結していましたので、日本共産党もソ連、実質的にはスターリンに従属していました。
 1920年代に闘争路線をめぐって山川イズム(山川均)と福本イズム(福本和夫)が争ったときも結局、ソ連の判断を仰ぎ「27年テーゼ」を採択。またソ連が満州事変を日本で内乱化させる必要が生じた際には「32年テーゼ」を採択し、暴力革命路線に転じてソ連の手先の役割を担いました。
 さらに戦後、北朝鮮が南侵するや(1950年、朝鮮動乱)、コミンフォルム(コミンテルンの後身)の指示に従って「52年テーゼ」を採択し火炎ビン闘争を繰り広げました。
 中ソ対立後はソ連についたり中国についたりと迷走を重ね、その度ごとにソ連派(志賀一派)、中国派(のちの連合赤軍など)が分派し、行くところがなくなって、つまるところ「自主独立路線」に落ち着きました。
 しかし、自主独立といっても国際共産主義との連帯は一貫して希求し、ベトナムやユーゴスラビア、北朝鮮などと親交を深めたりしますが、結局は「共産大国」とよりを戻すことに務め、70年代末から80年代にかけてはソ連、ソ連が崩壊した90年代以降は中国に傾斜する態度をとっています。
 ですから現在、共産党は中国ときわめて良好な関係を保っています。
 では、米国とはどうでしょうか。戦前の共産党は「日本帝国主義」の打倒を中心任務としていました。「日本帝国主義は世界の主要な独占資本主義国の一つになってはいたが、農村では半封建的地主制度が支配しており、これらの基礎のうえに絶対主義的天皇制が反動支配勢力の主柱として軍事的、警察的な専制権力」(現在の党綱領)と位置付け、天皇制打倒を目論んでいたからです。
 終戦直後は占領軍を解放軍と絶賛したこともありますが、米ソ冷戦が姿を現すと徹底的な反米路線へと転じます。60年に採択したいわゆる宮本路線(現綱領路線)では「現在、日本を基本的に支配しているのは、アメリカ帝国主義と、それに従属的に同盟している日本の独占資本である。わが国は、高度に発達した資本主義国でありながら、国土や軍事などの重要な部分をアメリカ帝国主義ににぎられた事実上の従属国となっている」としています。

二段階革命めざす外交
 そこから日本革命を展望すれば、「当面する革命はアメリカ帝国主義と日本独占資本の支配に反対する新しい民主主義革命、人民の民主主義革命である」(同)ということになり、まずは広く反米で結集した民主連合政権樹立をめざすことになり、その後に社会主義革命を置く二段階革命路線となるわけです。
 このように見れば共産党の外交・安保政策は党創立以来、ほとんど変わりがないことがわかわります。あくまでも共産主義イデオロギーにもとづく革命路線として外交・安保政策があるのです。