実録・日本共産党

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―その恐るべき素顔と歴史を探る―
思想新聞より

実録・日共産党

 41  戦後編29
民青幹部を査問、追放
「新日和見主義」理由に

 70年代前半、共産勢力のうち極左過激派が連合赤軍事件など国民を震撼させた過激行動によって学生・青年層の支持を一挙に失っていく中で、共産党は「民主連合政府構想」を掲げて支持を拡大し、学生・青年層においても圧倒的な存在感を示すようになります。

 しかし、そこに大きな落とし穴が待ち受けていました。70年安保闘争の主役を担い、過激派との闘争によって力を付けた学生・青年組織「民青」(民主青年同盟)幹部への疑いを深め、彼らを「新日和見主義分派」と断じて「査問」し党役職から追放するという事件を起こします。これが今日に至る共産党の青年学生組織の脆弱性の原因とされているものです。

 いったい「新日和見主義事件」とはどのようなものでしょうか。その真相については最近、この事件で民青から追放された元幹部が相次いで告白本を出版しています。全学連元委員長で当時、民青中央委員だった川上徹氏の『査問』(筑摩書房)、同じく当時、民青静岡委員長・中央委員だった油井喜夫氏の『汚名』(毎日新聞社)などがそれです。

「事件」の発端は71(昭和46)年12月、共産党第6回中央委員会で突然、「民主青年同盟に対する指導と援助の問題について」の決議が採択されたことに始まります。この決議は「民青の対象年齢引き下げ方針」を決定したもので、民青加入年齢限度を従来の28歳から25歳、民青幹部年齢限度を32歳から30歳に引き下げるというものです。

 その狙いは民青幹部の指導力が大きくなり宮本路線を脅かすようになるのを防ごうというところにあります。年齢引き下げを民青幹部に相談もなく党中央が突然決めたのです。しかも、引き下げまでの予備期間や経過措置も講ぜず、いきなり引き下げるというので、民青幹部らは組織発展に問題が出るとして無条件に受け入れることに難色を示しました。ところが、これを宮本委員長ら党中央は、党に反逆する組織的陰謀を張り巡らせているとして、民青幹部を民青組織から追放したのです。まるで戦前のリンチ殺人事件を彷彿させるやり方です。

『査問』の川上氏は60(昭和35)年に東大教養学部入学と同時に日本共産党に入党。64年から66年まで全学連委員長を務め、66年に民青本部に入り中央常任委員を務めた、筋金入りの学生出身党員です。しかし72年に「新日和見主義分派」と断じられ、2週間にわたって東京・代々木の党本部の一室に閉じこめられ査問を受けたといいます。

 川上氏は結局、民青本部から追放され、一党員となりますが、91年に離党しました。

 川上氏によると、査問は突然の身柄拘束から始まり、「自殺予防」のために防衛隊員なる党員が添い寝する異常な査問部屋で、2週間も閉じこめられて一方的に追及されるのです。川上氏はこう語っています。

「市民社会の刑事訴訟では、有罪を主張する者にその挙証責任があり、被疑者の側は検察官の矛盾を衝きさえすればいい。ところが、ここでは無罪の証明を被疑者に要求する。『自分はやっていない』ことの証明を、この密室でどうやってやれというのだろうか」

 川上氏は査問官(今井伸英=当時・民青副委員長)のこんな言葉を紹介します。「君、君が消えてくれるのがいちばんいいんだけどな。ネ、茂木さん(査問責任者=自治体部長など歴任した最高幹部)」。この言葉を川上氏はずっと忘れられず、次のように回顧しています。「私は後年、何度か、今井が何気なく吐いたこのことばを思い出し、もし日本がソ連・東欧型の社会主義国になっていたとしたら、間違いなく自分は銃殺刑に処せられていただろうと思った」

「民主集中制」の独裁を露見
 こうして共産党は民青中央常任委員の15名のうち7名、中央委員130名のうち30名を民青組織から追放しました。

 この事件は共産党組織の問題点つまり「民主集中制」の独裁体制の恐ろしさを浮き彫りにしました。そして党自らが有能な青年幹部を失うことで党組織の弱体化を将来招くことになるのです。