実録・日本共産党

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―その恐るべき素顔と歴史を探る―
思想新聞より

実録・日共産党

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戦後編
GHQが助けた党再建
野坂「平和革命論」

 戦前編で見てきましたように、1935(昭和10)年3月に袴田里見らが検挙されたのを最後に、日本共産党員は一網打尽となり、共産党組織が壊滅。彼らは十数年に及ぶ長い歳月を刑務所で送ることになりました。

ポツダム宣言で思想犯が釈放に
 ところが45(昭和20)年8月15日、日本は連合軍に対して無条件降伏の止むなきに至ります。そして日本占領の根本方針を定めたポツダム宣言に基づき連合軍総司令部(GHQ)による日本占領が始まることになります。
 ポツダム宣言第十条には次のようにあります。
「日本国政府は、日本国民の間における民主主義的傾向の復活強化に対する一切の障害を除去すべし。完全なる宗教および思想の自由、並びに基本的自由の尊厳は確立せらるべし」
 この条項に基づいて同年10月4日、GHQは日本政府に対し拘留中の共産党員の釈放を命令しました。共産党支持者らはこの命令に感激して、GHQを解放軍として迎えたのです。こうして同月10日に徳田球一、志賀義雄、宮本顕治ら16人が出獄しました。
 断っておきますが、宮本顕治名誉役員(さる11月下旬の共産党第22回大会で名誉議長から名誉役員に変更)は単なる思想犯(治安維持法違反)ではありません。傷害致死罪などで有罪の確定判決を受けた一般刑法犯でもあります。GHQは政治犯と刑法犯を併せもつ者の釈放を認めていませんでしたが、どういうわけか宮本は釈放されます。
 ちなみに、同年12月29日の勅令730号によって復権されたと宮本や共産党は主張しています。しかし、この勅令も、複合犯については復権を認めていません。
 いずれにしても、宮本名誉役員は終戦直後のどさくさにまぎれて出獄してきたと言わざるを得ないでしょう。
 とまれ、共産党はこうして、GHQに助けられて党再建に乗り出すことになります。同年10月20日には早くも機関紙『赤旗』が再刊され、「人民に訴う」の声明が発表されました。11月8日から10日にかけては、第1回全国協議会が招集され、行動綱領や規約の審議が行われました。
 さらに12月1日から3日にかけて第4回党大会が開催され、行動綱領と規約が決定され、ここに正式に日本共産党が再建される運びとなったのです。ちなみに同年12月12日の『赤旗』によれば、当時の党員数は1181人であったといいます。
 第4回党大会の行動綱領は、太平洋戦争を「天皇制権力の犯罪的帝国主義戦争」と決めつけ、進駐軍は「専制主義および軍国主義からの世界解放の軍隊」であり、連合国憲章と世界労連の結実こそ、世界民主主義的平和体制の旗がしらだと歓迎しています。
 同綱領は、日本の天皇制政府はただ表向き服従するゼスチャーを示すだけとし、「勤労大衆を依然として隷属させ、軍国主義の復活に備えつつある」と非難、さらに戦争犯罪の元凶たる天皇制打倒による軍事的警察的帝国主義の根本的掃討こそが日本民衆の解放と自由獲得のための基本的前提だと主張しています。
ここでも共産党は、すべての問題の焦点を「天皇制打倒」一本に絞っていることがわかります。
 翌46(昭和21)年1月12日、中国の延安から野坂参三が帰国、彼はまるで凱旋将軍のように迎えられました。野坂は「愛される共産党」をキャッチ・フレーズにし、同年2月24日から26日にかけて開かれた第5回党大会で「平和革命宣言」を上程、採択されます。
 同宣言は「日本共産党は、現在進行しつつある、わが国のブルジョア民主主義革命を、平和的に、かつ民主主義的方法によって完成することを当面の基本目標とする」というものです。
 この平和革命論と戦後の混乱に乗じて共産党は勢力拡大を続け、同年3月には約7000人の党員を数えるまでになります。同年4月の戦後初の衆議院議員選挙で共産党は213万票を獲得し、徳田、野坂、志賀など六名が当選しました。