実録・日本共産党

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―その恐るべき素顔と歴史を探る―
思想新聞より

実録・日共産党


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戦前編【1】
コミンテルン、日本工作に動く
 片山潜を足がかりに

 共産主義運動において1917(大正6)年はそれ以前とそれ以降との決定的な分岐の年です。いうまでもなくこの年、ロシアにおいて革命が成功し、史上初めて共産主義政権が誕生しました。それ以降、世界の共産主義運動は「祖国・ソ連」の影響下にされされることになります。それゆえに、この年の以前を共産主義運動前史と呼ぶことが出来るでしょう。
 日本の共産主義運動前史は、アメリカのエール大学で学んだ片山潜が、1896(明治29)年、高野房太郎とともに、当地からキリスト教的な社会主義思想をたずさえて帰朝、思想の普及・宣伝と組合運動に専心したことに始まるとされます。
 2人は97(明治30)年、職工義勇会をつくり労働組合の組織に努め翌年、「社会主義研究会」を結成し思想の研鑽にも力を入れました。しかし、労働組合運動は1900(明治33)年、「同盟罷業の誘惑扇動」を禁ずる治安警察法によって弾圧を受け、あえなく挫折しました。
 また同研究会は、「社会主義協会」を経て1901(明治34)年に社会民主党へと発展したものの、結成の日に即座に禁止されてしまいます。同党創立には片山、高野のほか安部磯雄、木下尚江、幸徳秋水などが参加。無政府主義者の幸徳秋水を除けば、みなクリスチャンでした。彼らの多くはその後も平民社などで根強く社会主義運動を続けていったのです。
 その後、足尾・別子銅山のストライキ、東京の市電スト、農民の小作争議、ついには元老に脅迫状を送りつけるなど、社会主義運動は過激化していきました。
 こうした過程を経て、社会主義運動の指導的位置にあった片山潜は次第にマルクス主義に接近していきます。1904(明治37)年8月、日露戦争の最中に、オランダのアムステルダムで開かれた第二インターナショナルの大会に、片山は日本代表として出席。ロシア代表プレハーノフ(ロシア・マルクス主義の父)と握手し、ともに両国専制政府の軍国主義打倒のため手を携えて闘うと演説し合いました。
 片山潜は1906(明治40)年の日本社会党第2回大会で議会政策論を主張し幸徳秋水らと対立。その幸徳らは1910(明治43)年、天皇暗殺を企てたとした「大逆事件」の名のもとに一網打尽にされ、12人が処刑。ここに明治の社会主義運動は、あえなく潰れ去ってしまったのです。
 そこで片山潜は1913(大正2)年、再び渡米。ここではっきりと共産主義者になり、アメリカ共産党の創立に参加しました。
 さて、1917(大正6)年にロシアで共産革命が成立すると、レーニンは1919年、「コミンテルン(国際共産党=第三インター)」を設立し、世界共産化に臨もうとします。18(大正7)年の米騒動、翌19年の八幡製鉄での溶鉱炉の火を落とす大争議など、世界大戦後の深刻な不況と社会不安を背景に、コミンテルンは日本支部(すなわち日本共産党)創立を急ぎます。
 20(大正9)年の初め、コミンテルンは上海に極東委員会(ビューロー)を設け、日本や中国に対して共産党組織の工作を本格化させました。その指導によって翌21年7月には中国共産党が発足。この年、片山潜は検挙を逃れてソ連に渡り、コミンテルン執行委員に就任します。コミンテルンは片山潜を足がかりに執拗な工作を始めます。こうして日本共産党創設への動きが具体化していきます。