実録・日本共産党

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―その恐るべき素顔と歴史を探る―
思想新聞より

実録・日共産党

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戦後編 53

中国追従路線に転換
反米統一戦線めざす

 日本共産党の不破哲三委員長は1998(平成10)年7月、中国を訪問し江沢民総書記と日中両共産党首脳会談を開き、32年ぶりに関係正常化を果たしました。
 ソ連・東欧圏が崩壊した後の共産党にとって、国際共産主義との連帯をどうするかは大きな課題となっていました。国際的孤立化の道を歩むか、それとも中国共産党とよりを戻して親中路線に転換するか、この二つしか選択の道はありませんでした。
 これは日本共産党の性格を規定する、きわめて重要な問題です。ここで共産党は中国追従路線を選択したといえます。

過去の問題を棚上げにする
 首脳会談で不破委員長はかつて中国共産党(中共)が武装闘争を教唆した過去の「干渉」の総括を棚上げにし、また天安門事件や核問題について何ら批判しませんでした。特筆すべきは日米安保体制の弱体化で両党が完全に一致したことです。いわば反米統一戦線の結成です。
 日中両共産党の首脳会談は1966年に当時の宮本顕治書記長が訪中して以来のことです。このときは宮本書記長は北ベトナム支援の国際統一戦線づくりに取り組もうとしましたが、これを毛沢東主席は一蹴し、日本国内での武装闘争を促したのです。驚いた宮本書記長が急きょ、帰国して中共批判を展開、これに対して中共は日本共産党内の親中分子を支援して分派を作らせたことで両党関係は決裂してしまいました。
 85年には共産党は訪中団を送り、同党へ過去の「干渉」を正式に「反省」することを求めましたが、この時も中国側は首を縦に振りませんでした。それ以降、両党関係は冷えたままでした。
 こうした経緯を不問に付して共産党は中共に再接近したのです。その背景として宮本、毛沢東、
 小平などの日中亀裂の当事者らが代替わりしたことで、対話を再開する環境が生まれたことがあげられます。共産党にとっては「党外交」の成果として柔軟路線を無党派層に印象づけることができ、支持拡大につなげられるという期待があります。
 一方、中国にとっては従来の社会党に代わる「代弁者」を日本国内につくりたい思惑がありました。そして何より重要なのが、両党が「反米」で一致したということでしょう。中共は日米安保体制にくさびを打ち込むには、日本国内で反米勢力を醸成して「反米政権」を樹立させ、日米安保条約を破棄させて在日米軍を追い出したいのです。アジアの覇権を確立するにはこのことが不可欠と考えているのです。
 不破委員長は同年7月29日の共産党創立76周年の記念講演会で、首脳会談を「21世紀のあるべき日中関係のレールが敷けた」と自賛しています。そのレールとは反米にほかなりません。いわば反米のためなら何でもありです。
 首脳会談で不破委員長は、天安門事件に関して「現在の中国指導部が、天安門事件以後の指導部という性格をもっていることもよくみる必要がある」と語り、天安門事件を不問に付しました。江総書記の中央への抜擢が同氏の上海市党委書記時代における民主化運動鎮圧の功績からだったという事実は全く触れないままです。
 さらに周辺国の関心が集まる中国の軍拡路線についても共産党は黙殺し続けています。逆に中国が自らの軍拡の理由を「(米国の)軍事ブロックの拡大と軍事同盟の強化は国際的安全保障に不安定要素を加えた」としていることを容認し、さらに中国が台湾との統一に武力使用の放棄を約束しないことに対して何ら批判を加えません。

民主化弾圧独裁も容認
 また中国が民主活動家を「国家転覆の罪」などで逮捕するなど、憲法でうたった「表現の自由」を破って弾圧を繰り広げても、共産党は批判することがありません。中国の一党独裁には沈黙を守り続けているのです。
 これが対中追従路線でなくて何でしょうか。共産党はなりふり構わず親中・反米路線をひた走ろうとしているのです。