実録・日本共産党

文字サイズ

―その恐るべき素顔と歴史を探る―
思想新聞より

実録・日共産党

15
戦後編 2
反米・民族戦線めざす社会党との共闘企図

 2・1スト中止の熱気の覚めやらぬ47(昭和22)年4月20日、新憲法公布後初の参議院議員選挙があり、共産党は地方区で72万、全国区で61万の得票を得て、4人が当選。またその直後の25日に行なわれた衆議院議員選挙では日本社会党が第一党となり、共産党も100万票を獲得、4人の当選を見るに至ります。
 社会党は初めて政権の座につきますが、第二のケレンスキーとなることを恐れて、共産党との絶縁を声明。これに対して共産党の野坂参三は、なんとかその懐に食い込もうと「平和革命方式」を打ち出し、5月に開かれた第5回中央委員会でこれを採択します。

米軍の干渉を警戒し反米共闘へ
 さらに同年12月に開かれた第6回党大会では綱領と規約を一新させ、新たにポツダム宣言の厳正実施と民族独立を中心的スローガンに据え、アメリカ軍の干渉に索制を加える作戦に出ます。また社会党との共闘をめざして「民主民族戦線」を新たに打ち出します。この時の党員は推定で約7万人。
 こうした中で初の政権についた社会党の片山哲内閣は、党内の左右の対立によって翌48年3月にあえなく瓦解、これに代わって芦田均を首班とする民主・社会連立内閣が成立します。この絶好の間隙をぬって共産党は社会党に対し3月、「人民の生活の安定のために闘い、国を愛する、すべての民主主義者は心から民主勢力の連合と統一を切望している」という大義名分を掲げて、再び「民主民族戦線」を提唱。これを第10回中央委員会で正式に決定し、平和と民主主義・民族独立のための宣言を採択します。
 そして4月には、民主民族戦線宣言を発表し以後、共産党は労農党、労働組合などに呼びかけ、8月には加盟団体構成員数が100万と自称する民主主義擁護同盟を結成します。このようにして共産党は企業、とりわけ政府企業に深く浸透してくることになり、マッカーサー長官は対応策に本腰を入れ国家公務員のスト権禁止を指令します。
 共産党がアメリカ占領軍との対立を激化させてくる中で、片山・芦田両内閣の失政が相次ぎ、その不人気も手伝って共産党は急激にその勢力を増大し始めることになります。9月には共産党の出先機関ともいうべき全学連が結成され、10月には芦田内閣が昭和電工疑獄事件に連座して総辞職。代わって第二次吉田内閣の成立を見ます。
 このような共産党の攻勢は、国内的に見るならば時の政府の失政や国民世論の不満を巧みに吸収した結果のようですが、実際は日本を取り巻く国際情勢と深く関わっていることを見逃すわけにはいきません。
 当時の国際情勢、とくに国際共産党の趨勢を見ておきましょう。
 47年から48年にかけて、鉄のカーテンに組み込まれた東欧諸国は、次々に共産化されます。47年9月、スターリンは東欧6カ国と仏・伊およびソ連の共産党代表をポーランドに呼び集め、コミンフォルム(共産党労働者党情報局)を組織し、本部をベルグラード(後にブカレスト)に置き、同年10月より正式に活動を開始します。
 アジアでも、45年9月、ベトナムの北半分にベトナム民主共和国が成立。48年には北朝鮮の労働党が、朝鮮民主主義人民共和国の成立を宣言し、さらに翌49年10月1日には、中華民国政府を台湾に追い落とした中国共産党が、中華人民共和国を成立します。

世界の三分の一が共産圏に
 このようにして、またたく間に世界総人口の3分の1が赤化され、その勢いは止まるところを知らないように思われました。これが共産党員に強い刺激を与えたことは言うまでもありません。共産党員らはそのため、日本においても共産党政権の樹立は時間の問題だという錯覚を起こさせたのです。
 共産党員の間では「共産党政権が誕生すれば、俺は市長、お前は警察署長だ」といった話が公然とされるようになります。その結果、過信が次々と無謀で無責任な暴力行為を呼び起こすようになります。