実録・日本共産党

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―その恐るべき素顔と歴史を探る―
思想新聞より

実録・日共産党

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戦後編 49

党員36万人に転落
連立時代に活路を探る

 ソ連崩壊はコミンテルンの申し子だった世界の共産党に大きな打撃を与えることになりました。西欧ではイタリア共産党をはじめ各国の共産党が分裂したり右旋回、あるいは党名変更を余儀なくされます。そんな中で日本共産党は頑なに綱領路線(宮本路線=61年)を守り、共産主義思想にしがみ続けます。

四人に一人が共産党を去る
 その結果、共産党の党勢は大幅に低落することになります。87(昭和62)年に48万4千人という史上最高を数えた党員は90年代に入るとどんどん減っていき、94(平成6)年の第20回共産党大会時にはついに40万人を切って36万7千人に沈みます。実に党員の4人に1人、12万人近い党員が共産党に失望して去っていったのです。
 これに伴って機関紙「赤旗」も減少し続けます。80年代初めに72万部を数えた日刊紙は50万部を切って47万部、300万部近くを誇った日曜版も200万部前後まで落ち込んでいきました。
 党勢の後退で何よりも深刻な事態は青年・学生層が共産党から逃げ出したことでしょう。80年代初めに20万人台だった民青同盟員は、80年代後半に急落していき、94年の民青第22回大会時には、ついに2万6千人になります。民青の勢力は十分の一程度に退潮してしまったのです。まさに大没落です。
 青年・学生層はソ連崩壊によって共産主義の実態を目の当たりにし、共産党の掲げる理念や政策に失望してしまったのです。新たに民青に入ろうとする青年もほとんどいなくなり、2万人程度の勢力に落ちてしまったわけです。共産党最大の危機が到来したといっても過言ではないでしょう。
 しかし、共産党は息を吹き返すことになります。共産党の危機を救ったのは、共産党自身ではありません。皮肉にも自民党をはじめとする他の政党だったのです。
 90年代初めの日本政界はどんな動きをしていたのでしょうか。
 自民党政権の相次ぐ政治腐敗に批判が高まり、新党ブームが巻き起こりました。そして日本新党に加えて自民党から出た新生党や新党さきがけなどが相次いで結成され、93(平成5)年夏の総選挙で自民党はついに過半数を割れてしまいます。ここに、55年体制以来続いていた自民党政権が終わりを告げたのでした。
 こうして94年8月、細川野党連立政権が誕生します。これが今日まで続く連立時代の幕開けとなったのです。
 細川連立政権は日本新党、新生党、新党さきがけ、公明党、民社党、社会党などのまさに寄合所帯です。理念も政策も違う政党がたった一つの共通目的すなわち反自民で一致して獲得した政権です。その意味で野合政権との批判が免れません。
 しかも細川政権は翌94年4月に突然、辞職し、替わって羽田内閣が作られましたが、その過程で社会党とさきがけが連立から離脱。そして6月には少数与党政権に追い込まれた羽田内閣が総辞職。その直後、今度は何と55年体制の与党と野党であった自民党と社会党が組んで村山連立内閣を作ったのです。
 自民党は細川、羽田内閣を政策抜きの野合と批判してきましたが、今度は自ら社会党と野合して与党に返り咲いたのです。なりふり構わない数あわせの政権樹立というほかありません。
 社会党は93年に「93年宣言」でニュー社会党を掲げ、イタリアのトリアッチの構造改革論と旧ユーゴ共産党の自主管理社会主義などを取り込んだ路線を採用しましたが、反日米安保条約や反自衛隊の看板政策は降ろしてはいませんでした。その社会党と自民党の連立ですから国民を驚かせました。

政治不信頂点で共産批判消える
 このような理念や政策を抜きの野合連立政権によって国民の間に一挙に政治不信が高まることになりました。こうして政治不信が頂点に達しました。これぞ共産党にとって天佑でした。政界混乱下で共産党批判がいつの間にか消えてしまったからです。