実録・日本共産党

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―その恐るべき素顔と歴史を探る―
思想新聞より

実録・日共産党


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戦後編6
武装闘争路線に転換 朝鮮戦争を契機に

 1950(昭和25)年の年明け早々スターリンが事実上主宰するコミンフォルムから「平和革命論」を痛烈に批判された日本共産党は1月18日、さっそく拡大中央委総会を開催。野坂参三は自己批判をさせられ、中央委総会はコミンフォルム批判を全面的に受け入れることを決めました。

所感派と国際派の真っ二つに
 その結果、徳田球一の手による「政治局所感」に賛成したいわゆる所感派(徳田、野坂、伊藤律、志田重男、紺野与次郎ら)は敗北し、コミンフォルム批判(すなわち暴力革命路線)を支持した国際派(志賀義雄、宮本顕治ら)は勝利をおさめました。
 しかし、所感派(主流派)はこの屈辱をそのままには捨ておかず、名誉挽回のため「日本を隷属化し、そして世界を戦争体制に巻き込みつつある帝国主義と、これに奉仕する国内の売国政府の政策にたいして、全愛国者は、世界の平和勢力と提携しつつ、全力をあげて反対し、闘争しなければならぬ」という激烈な内容を盛った「50年テーゼ」(3月22日、アカハタ紙上で発表、通称、徳田テーゼ)を作成。そして、志賀・宮本らの国際派を左遷するという報復人事を行いました。
 この「テーゼ」は4月18日の第19回拡大中央委総会で討議されますが、議論沸騰で結論が出ず、次の大会まで採決は持ち越しとなります。
 こうして共産党が平和革命論を放棄し、著しい反米・過激化していくことに警戒を強めたのがGHQです。マッカーサー司令官は6月6日、突如、吉田首相あてに書簡を送りに24名の共産党中央委員を公職から追放するよう指令しました。『アカハタ』に対しては6月7日、編集責任者17人を公職追放します。
 これに対抗して徳田らの所感派の幹部は、合法的な臨時中央指導部を地上につくった上で、一人消え、二人消え、ついに国際派の中央委員7名だけを地上に置き去りにして、全員地下に潜ってしまいました。
 そうしたなか、6月25日、北朝鮮軍が三八度線を突破して韓国側になだれこむ、朝鮮戦争が勃発したのです。北朝鮮軍は一週間にして韓国軍を釜山近辺にまで押し迫るという危機的事態にいたりました。このため国連は直ちにこれを侵略と断じ、国連安保理事会で16カ国の国連軍の派遣を決定。9月13日、マッカーサーは仁川への逆上陸作戦を敢行し北朝鮮軍を北へと追い返し、ついには中国国境すれすれまで急追。中国はこれに応戦して翌51年1月、義勇軍を派遣し、人海戦術で連合軍を押しもどし、以後三年余にわたって一進一退をつづける大戦争となったのです。
 朝鮮戦争が勃発するとGHQは共産主義者に対してより一層、厳しく対処し、七月一八日には『アカハタ』無期限発行停止処分、また7月から11月にかけては、党員ならびにシンパを、電産その他の主要産業から9524人、公務員関係から1177人、合計1万余人をレッド・パージで職から追放しました。
 コミンフォルムの野坂批判以来、共産党の内部は所感派(主流派)と国際派(反主流派)に真二つに分裂し、50年の公職追放命令とともに主流派は国際派を地上に置き去りにしたまま地下に潜行しましたが、51年2月22日から27日にかけて第四回全国協議会(四全協)の開催にこぎつけました。四全協では「当面の基本的闘争方針」と新たな「規約草案」を決定し、新指導部を選出したのです。
 この「闘争方針」は労働者と農民の武装蜂起を公然とうたった激烈きわまりないものでした。この方針に基づいて8月に第20回拡大中央委員会を開き「戦術と組織の問題」を採択します。
 そこには次のように述べられています。
 「アメリカ占領軍と吉田政府を打倒することは、平和闘争を以てしては決して実行し得ない。このことは何人も疑わないことである。この問題に関する党の基本方針は、これらの敵に対して究極において労働者と農民の武装闘争を以て対抗することである。この武力闘争は、労働者の蜂起と、農民のパルチザン闘争を含むものである」
 こうして共産党は本格的な武装闘争に乗り出してくることになります。