実録・日本共産党

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―その恐るべき素顔と歴史を探る―
思想新聞より

実録・日共産党

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戦後編 43

ダブル選挙で自民圧勝
通じなかった中曽根批判

 1986(昭和61)年7月、衆参ダブル選挙が行われました。中曽根内閣が成立して3年余の「戦後政治の総決算路線」を問うた選挙で、80年代最大の政治決戦です。
 この選挙で自民党は歴史的大勝を果たし、衆院で304議席という空前の議席を獲得しました。自民党の得票率は49.4%で前回比3.6%増、実に投票した有権者の二人に一人が自民党に入れたのです。
 自民圧勝は中曽根首相の予想を超えた結果でした。300議席の大台に乗せ中曽根首相は「天の声、神の声、国民の声」と感想を述べました。
 これに対して社会党は史上最低の86議席に低落。共産党は野党の中で唯一、現有議席(27)を守ったものの、得票率は0.5%減の8.8%で前回・前々回の9%台を維持することができませんでした。共産党はどの党よりも激しく中曽根批判を展開しましたが、国民は共産党の主張を受け入れなかったのです。
 なぜ自民党が圧勝したのでしょうか。東京新聞は「自民圧勝の背景は、中曽根首相の人気と若者の保守化にあることが浮かびあがった」(同7月8日付=慶応大学堀江研究室調べ)と述べています。
 またサンケイ新聞は「中曽根首相の存在が有権者にどうアピールしたか。これを探る一つの方法は首相との一体感をより鮮明にしている中曽根派、とりわけ支持基盤が比較的弱く、浮動票に比重をおく新人の集票力をみることだ」(7月12日付)として、中曽根派新人が他派よりも勝率が高く得票数も多いことから勝因を探っています。
 このようにマスコミは「中曽根人気が勝因」と断じました。たしかにダブル選挙前に中曽根内閣の支持率は高まっていました。読売新聞の世論調査では83年総選挙当時の中曽根内閣の支持率は38%(不支持率39.7%)だったのが、86年3月の世論調査では支持率が57.5%(不支持率24.7%)に跳ね上がりました。
 この中曽根人気は単に個人的人気というわけではありません。政策的な人気だったといえます。
 中曽根内閣が四年間で進めたことは・自由陣営の一員としての“責任外交”・行革・国鉄再建・教育臨調でみられる戦後政治の総決算路線──を強力に推進したことです。首相は“外交の中曽根”といわれ、レーガン米大統領といわゆるロン・ヤス関係を築き、世界の中の日本のステータスを高めました。
 しかし、共産党は中曽根路線にことごとく反対しました。ダブル選挙で共産党は行革に対して「行革の七つの罪」(不破委員長)を訴えたのです。それは・行革の指揮権を財界にゆだねた・行革を軍拡の道具に使う・行革が汚職・腐敗を強化した・行革が不況を激しくした・行革が財政再建をもてあそんだ・行革が国鉄を解体する・行革が福祉制度を破壊した、という七つがそれです。
 しかし、こうした批判は中曽根内閣から徹底的に反論を加えられます。たしかに臨調(臨時行政調査会)には土光敏夫会長をはじめ財界から委員が多く入りましたが、それは民間の知恵を利用しようというものです。
 軍拡の道具に使うという批判に対して中曽根内閣は「国家の安泰と国民の繁栄をはかるべき道具だ」と切り返しました。臨調は「防衛問題を国政の中心課題に位置づけ、『西側陣営の一員』として国力・国情にあった防衛力の整備」を行うことを提言していましたが、国民はこれを支持したのです。

噴飯ものだった共産党の主張

 行革は「行財政の徹底的合理化・効率化を進める」もので、共産党のいう「腐敗・汚職にメスを入れない」というのは筋違いの批判でした。また「行革が不況を激しくした」とか「行革が財政再建をもてあそんだ」との主張にも国民は首を傾げました。
 共産党は「行革が国鉄を解体する」として例えば「鹿児島から東京までの列車が走らなくなる」と批判しましたが、こうした主張は今から見ると噴飯ものでしょう。「行革が福祉制度を破壊した」というのも全く不当な主張でしかありません。