実録・日本共産党

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―その恐るべき素顔と歴史を探る―
思想新聞より

実録・日共産党

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戦前編 【2】
創立資金と指令、ソ連から
すべてがモスクワ産

 世界共産化を目指したコミンテルンの極東委員会が上海に設立された1920(大正9)年、この年の5月1日に日本最初のメーデーが上野公園で行なわれます。メーデーには15団体から約5千人が参加し、治安警察法17条撤廃や失業防止、シベリア即時撤兵を叫んで、多数の検束者を出します。

 ロシア革命に感激した近藤栄蔵

 その頃、朝鮮人の林と称する者が、コミンテルン極東委員会に日本人の派遣を勧告するため上海からはるばるやってきました。これを取りついだのが近藤栄蔵でした。彼はアメリカで片山潜の紹介でアメリカ社会党の左翼と交わり、ロシア革命に感激して、日本でも社会主義運動を起こそうと、急きょ帰国した人物です。堺利彦、山川均、高津正道などがこの話に乗り、極東委員会への代表派遣の前提として、日本共産党準備委員会をつくりました(20年4月)。
 そして近藤栄蔵が同準備委員会の代表となって上海に行き、5千円の運動資金を支給されて帰ってきたのです。ところが、帰国直後、下関で痛飲して警察に拘置されるという醜態を演じ、同志の信用を失ない、やむなく社会主義同盟解散後できた暁民会(指導者・高津正道)に働きかけて、20(大正9)年8月20日、「暁民共産党」を組織します。
 この報告がコミンテルンに届くと、さっそく上海からコミンテルン工作員でB・グレーと呼ばれる人物が数万円の運動資金をもって11月に来日。しかし、ことが露見し党員約40名が検挙され、組織工作は失敗に終わってしまいました。
 これと前後して、中国人の張太雷が、モスクワで開催される極東民族大会に日本の代表を派遣するよう勧告に来ました。「暁民共産党」はこれに応じて同年十月、高瀬清(当時の共産党の中心人物)、徳田球一など労働者代表約10名をモスクワに派遣しました。
 この極東民族大会は翌21年1月モスクワで開催の運びとなり、ここで日本共産党の設立が正式に決定されたのです。大会には当時、新聞記者だった鈴木茂三郎や総同盟の野坂参三などが参加しており、日本から来た彼らを指導していたのは片山潜だとされています。
 いずれにせよ、この会議にはスターリン、ブハーリン、ジノヴィエフなどソ連共産党の最高幹部が参加・指導に当たり、日本共産党設立への具体的な指示が与えられ、相当の資金が供給されたと伝えられています。
 この決定と指示に基づいて22(大正11)年春、代表団はひそかに帰国、結党の工作を精力的に推し進め、遂に同年7月15日、東京渋谷の伊達町の一民家で日本共産党の創立大会が開かれるまでに至ったのです。

 コミンテルン日本支部として承認

 この組織はきわめて小さなものでしたが、堺、山川、荒畑、近藤、高津、徳田などが中央委員となり、24カ条の暫定規約が採択され、コミンテルンへの加盟が満場一致で決定されました。
 そして23(大正12)年11月5日、高津らは、レニングラードで開かれたコミンテルン第4回大会に党創立の報告をなし、ここに日本共産党はコミンテルン日本支部(日本共産党)として正式に承認されるようになったのです。
 同大会でコミンテルンは、日本支部の設立と同時に、モスクワに極東勤労働者共産主義大学(通称クートペ)をつくり、日本共産党に毎年30人の留学生を送るよう求めてきます。実際には毎年約10名ずつが送られ、彼らはここでマルクス・レーニン主義とロシア語、軍事の教育を1年ほど受け、特定の任務を与えられて日本に送り返されました。
 このように資金も指令も教育も、すべてが「モスクワ産」なのが日本共産党といえます。