実録・日本共産党

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―その恐るべき素顔と歴史を探る―
思想新聞より

実録・日共産党

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相次ぐ検挙で組織壊滅再建へソ連の資金頼る

「27年テーゼ」、つまり半封建社会における革命の基本公式としてブルジョア民主主義革命から社会主義革命への転化という二段階革命戦略に力づけられた共産党員達は、合法・非合法の出版物を出し、それを通じて積極的に大衆化運動を進めはじめました。

 党員が五百人以上にもふくれあがる

 共産党はすでに1925(大正14)年、合法理論機関誌『マルクス主義』と合法機関紙『無産者新聞』を発行していましたが、28(昭和3年)には、初の普通選挙をめざして非合法中央機関紙『赤旗(せっき)』を創刊するようになります。これらの情宣活動の結果、長らく百人前後の党員で固定していたのが、一躍500人以上にふくれあがりました。

 その一方で「27年テーゼ」をきっかけに、党の分裂も進みました。解党論の中心人物だった山川均は、もともと経済主義のサンジカリスト(組合運動派)であった荒畑寒村などと共に雑誌『労農』を発行し、公然と分派活動を始めます。このグループはコミンテルンから日本のメンシェヴィキだと規定され、28年2月の第1回普通選挙を機会に、ついに除名。

 第1回普通選挙には、麻生久らの日本労農党、鈴木茂三郎、西尾末広らの社会民衆党、その他、日本農民党、民憲党など多数の無産政党が名乗りをあげますが、そのうち大山郁夫を委員長とする労働農民党は、その書記局を共産党のフラクションで握っている合法面での共産党の“出店”でした。この党の名で共産党の地下組織は多くの共産党員を立候補させ、側面から共産党の「27年綱領」を公表、「君主制の撤廃」をはじめ党の諸政策を公然と掲げたビラを配布して、職場内の活動をさかんに行いました。その結果、無産諸政党は総数で約49万票、労農党はそのうち最も多い19万票の得票を得、山本宣治など2名の当選者を出すに至りました。

 だが、この大胆さが結局は共産党の命取りになりました。28(昭和3)年3月15日、全国の警察が一斉に動員され、党員およびそのシンパ約1600人が一網打尽に逮捕されたのです(第二次検挙=三・十五事件)。これは党にとって大きな打撃を与えました。

 さらに時の田中義一内閣は四月、追い討ちをかけるように、労働組合評議会、労働農民党、無産青年同盟など、共産党が合法面での窓口としていた諸団体の解散を命じます。大衆との結びつきを完全に断ち切られて窮地に陥った共産党は、急きょ地下に潜っていて逮捕をまぬがれていた渡辺政之輔、三田村四郎、鍋山貞親の三人で臨時常任中央委員会を組織、党の立直しをはじめます。

資金を受けとった渡辺政之輔の最期

 その頃から日中関係の雲ゆきが次第に怪しくなりはじめ、済南事件、張作霖爆撃事件などが相つぎます。共産党地下組織はこの頃もっぱらこれに抵抗して、対支出兵反対闘争を行い、この執拗な闘争に政府も不安を覚え、態度を一段と硬化。同年6月には緊急勅令によって治安維持法を強化、思想犯に対し最高死刑を課し得るようにし、さらに七月には特別警察(特高)を拡張しました。

 こういう社会情勢の中で、共産党の地下組織は、一部始終をコミンテルンに報告。渡辺政之輔らが上海極東委員会(ビューロー)に呼ばれ、ここで渡辺は党再建資金を受け取って帰国しようとするも同年10月6日、台湾の基隆で警察の不審尋問を受け、ピストルを乱射し一名を射殺。最後に逃げきれぬと観念し、渡辺はついに自殺しました。

 さらに国内では相次いで逮捕劇が繰り広げられ、翌29(昭和4)年3月には、治安維持法の改正に反対を唱えつづけてきた労農党代議士の山本宣治が民間人に刺殺され、最後にとどめを刺すように4月に第三次検挙が抜き打ち的に敢行されました(四・十六事件)。

 こうして共産党の主要な指導者はほとんど姿を消すに至りました。