実録・日本共産党

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―その恐るべき素顔と歴史を探る―
思想新聞より

実録・日共産党

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戦前編
スパイ処刑は党の方針 
コミンテルン指令 レーニンの基本的方針だった


 宮本顕治名誉議長が首謀者として起こした共産党リンチ殺人事件。これは単に偶発的に発生した事件ではありません。ここにもコミンテルン(国際共産党=事実上のソ連共産党)の指令があったのです。
 歴史的考証の綿密なことで有名な作家の故・松本清張氏は「歴史発掘5『スパイ"M"の謀略』」(文春文庫)の中で、1931(昭和6)年にすでにコミンテルン極東局から日本共産党に対して「スパイは発見次第必ず消すこと」との指令がきていたと次のように指摘しています。
 「その中で(コミンテルン極東局の指令)注目すべきことが三つある。すなわち【1】党大会を9月までに開くこと、事務は風間と村松で当たること【2】従来の観念を改めて武器使用は一切厳禁すること、使用の問題を自己におかず、大衆をして武器を執らしめるという観点に立つこと【3】スパイは発見次第必ず消すこと―」 
 34(昭和9)年1月17日付の「赤旗」には、「岡野進」の署名論文「挑発者に対して系統的闘争を組織せよ!」が掲載されています。岡野進とは当時、コミンテルンで活躍していた野中参三(後の共産党議長)のことで、彼は次のように日本共産党に指令を伝達しています。
 「この問題に関してレーニンは我々に明瞭にして且つ基本的な方針を与えた。
『我々は労働者に対して切言せざるを得ない。スパイ、官犬、及び裏切り者を殺すことは勿論時として絶対に必要なこともあるが、それにも拘わらず、之を原則とすることは極めて不都合であり、誤謬である』」
 スパイを殺すことを原則にするのは不都合で誤りだが、時には絶対に殺すことも必要である、と野坂は指令しているのです。評論家の立花隆氏はレーニンのこの方針について次のように述べています。
 「レーニンのこの基本原則にてらせば、宮本の『最高の処分は除名』(注=共産党と宮本はこう主張している)という原則が誤りであることはいうまでもない。レーニンに従えば、スパイを殺すことは『時として絶対に必要』なのであるから、『常に殺さない』ことを原則とするのは、『常に殺す』ことを原則とするのと同様に誤りである」(『日本共産党の研究』)
 スパイを消せ、というのが戦前の共産党の合い言葉だったのです。ですからリンチ事件は小畑・大泉だけではなく、その他にも多く見られることです。尹基姜という在日朝鮮人の共産党員らも殺されていますが、彼らの場合も共産党の指令で行われています。元共産党幹部の神山茂夫は次のよう証言しています。
 「党は、より綿密な調査を基礎にしながら系統的な組織的反撃を加えている。
それには階級的組織における最高刑としての除名はもとより、平安名(常孝)に対して河島治作をして制裁を加えさせ、故同志村上(多喜雄)をして尹基姜を処刑させている。また小畑・大泉にたいする計画的査問をおこなった。……1930~34年、あの特殊に激烈な闘争がおこなわれた時期、平安名や尹基姜に実力的制裁を加えたやり方には、なお問題にすべき点があるかもしれない。しかし上級の指示にしたがい、故同志村上のごとく、自己の生命にかけて、敵の犬に制裁をくわえた行為は、革命的英雄主義の一つのあらわれとして、われわれはながく記憶すべきであろう」(『現代日本国家の史的究明』)
 まさにスパイ処刑は共産党の党中央の方針だったのです。とまれ宮本は33(昭和8)年に逮捕され、最後まで逃亡していた袴田里見らもその後に逮捕され、共産党の主だった幹部はすべて太平洋戦争の勃発を待たずに逮捕されることになります。
 こうして共産党は解体されました。共産党が次に再建されるのは終戦後のことです。宮本らが獄中で戦争に反対して何らの行動を起こしたといった記録はありません。つまり、日本共産党は「戦争に反対した唯一の党」などといいますが、解体していた共産党が戦争に反対する術はなく、したがって「戦争に反対した唯一の党」というのは真っ赤なウソなのです。