実録・日本共産党

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―その恐るべき素顔と歴史を探る―
思想新聞より

実録・日共産党

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戦前編 【4】
ソ連製「二段階革命論」現在の党路線の原点に

 孤立化した共産党内では、党の再建よりもむしろこれを解体して社会民主主義的な方向に活路を求めようとする意見が強まります。

党解体しコミンテルンが怒る

 それは党が広汎な大衆運動の中から生まれたものでなく、単なる急進的なインテリの「街頭グループ」のセクトに過ぎないから、このままでは孤立化して自滅してしまう、まず合法的で大衆的な基盤の上に立ち、労働者や農民を広く寄せ集められる大衆政党を組織し、それが十分発展したところで改めて共産党の再建をはかろう、というものでした。

 こうして24(大正13)年3月、万場一致で解党が決議されるに至りました。解党決議によって方向転換をなした共産党員達は、その精力をあげて労働総同盟内のフラク活動(組合の中に党員の息のかかった分派をつくりそれによって組合を党の方針通りに動かそうとすること)に注ぐようになりました。その結果、総同盟の内部では左右の対立が先鋭化し、関東では左派(共産党系)を除名して排除するなど、大騒動が持ち上がります。

 このようにフラク活動が戦闘的に押し進められていくのと併行して、党は徳田球一らを通して、解党決議をコミンテルンに報告。だが、コミンテルンは「とんでもないことだ」と怒り、解党決議を受けつけずに直ちに党の再建を指令。25年1月にはコミンテルン極東ビューロー(上海)は、党の再建を強力に推進すべきことをうたった『上海テーゼ』を作成し、これを徳田をして日本に持ち帰らせました。

 これを受けて26(大正15)年12月、山形県五色温泉で、第3回再建大会が開かれ、ここにようやく党の再発足を見たのです。この党の再建にあたって、かつて解党につながった指導的思潮である山川イズムを克服するものとして、哲学的色彩の濃い福本イズムが代ってその理論的支柱として立てられるようになりました。

 山川イズム(山川均)が大衆と結びつかぬセクトを廃し「協同戦線党」のみで労働運動を押し進めていくべきだとするものであるのに対し、福本イズム(福本和夫)とは全く逆に日本の資本主義を破産寸前にあるとみなし、理論闘争による「分離結合」を通じて革命的意識を尖鋭化、それによって現実を変革していこうとするものです。

 同年12月に開かれたコミンテルン第六回拡大施行委員会において、日本代表として派遣された鍋山貞親がそうした動きを報告すると、コミンテルンはにわかに色めき立ちました。それは福本イズムがソ連で大論争の最中にあったトロツキズムに通ずる考えであったからです。

 早速、新たに選出された中央委員と、福本イズム・山川イズムの両責任者をモスクワに寄越せという秘密電報が東京に飛び、これに応じて27年2月、徳田、渡辺、福本らがモスクワに来着。半年にわたる熱烈な議論の末、7月、コミンテルン第7回施行委員会総会で、ブハーリンを主査とする委員会作製の「日本問題に関する決議」、いわゆる「27年テーゼ」が採択されたのです。

日本を半封建社会と位置づけ革命へ

「27年テーゼ」は同年秋、日本に持ち込まれ、それに従うことが党幹部全員一致で確認されました。この「テーゼ」は、日本を半封建社会と位置づけ、「天皇制と結びついた封建社会残存物を一掃する民主主義革命からはじめなければならない」とし、「共産党を前衛として指導の中心に立てるとともに、統一戦線戦術によって、労働組合および大衆政党を内部から占領していかねばならない。かくしてブルジョア民主主義革命から適時、社会主義革命へと転化していくことが必要である」と、ブルジョア民主主義革命から社会主義革命への転化という「二段階革命戦略」を明示したのです。

 現在の共産党綱領もこの革命戦略を踏襲していることに注意してください。