実録・日本共産党

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―その恐るべき素顔と歴史を探る―
思想新聞より

実録・日共産党

戦後編28

民主連合政府の提唱
「厚化粧」さらに濃く

 共産党は革新自治体が増加するに伴って民主連合政府の樹立を主張するようになります。

 もともと共産党は「反帝、反独占の民族民主統一戦線」政府の樹立を主張してきましたが、社会党などの他の左翼勢力はなかなか乗ってきません。そこでそこに至る過程として「当面、現実的に広範な国民の世論、民主的な勢力が容易に一致しうる共通の課題」を担う政権として民主連合政府を打ち出したのです。

 1970(昭和45)年7月に開いた第11回党大会では「民主連合政府の樹立を1970年代のできるだけ遅くない時期に達成しようということは容易ではありませんが、けっして不可能な課題ではありません」(中央委員会報告・宮本顕治書記長)と強調。72年12月の総選挙で40議席獲得という大躍進を果たすと、共産党はいよいよ民主連合政府路線に自信を深めます。

「民主連合政府綱領」を提案
 同12月に開いた第九回中央委員会総会では、自民党政治の継続か、反共を前提とした社公民(社会党・公明党・民社党の中道)連合か、それとも真の革新統一戦線(民主連合政府)か、との三つの選択を提示し、民主連合政府の樹立を呼びかけます。

 そして73年11月の第12回党大会で「民主連合政府綱領」を発表することになります。それは「今日の情勢は、すでに革新統一戦線を結成しうる客観的諸条件を成就させており、民主連合政府樹立の目標は、今日、当面する政治闘争で民主勢力の共同の目標をしめす、実践スローガンに発展しつつある」(同大会決議)との認識から、民主連合政府の具体的な政策を提案しようというものです。

 マスコミはこれを「柔軟な提案」とみました。その特徴は革新三目標(安保破棄・反独占・民主主義)を軸にするが、第一には「細部の不一致点」の保留(棚上げ)、第二には総選挙で負ければ政権から降りる政権交替の原則確認、第三は自衛隊は直ちに解体せず削減などを行いその後に統一戦線を構成する政府の意見が一致すれば解体する、第四には国有化はエネルギー産業に限定する―といった内容です。

 これを宮本委員長は「大異を残して大同につく」統一戦線であると自負し、将来の民族民主統一戦線政府との関係について「民主連合政府が樹立されても、そこから独立・民主・平和・中立日本の基本的な建設にいたる過程は、かなり長期にならざるを得ないでしょう。それは発達した資本主義国におけるこういう過程は、きわめて複雑な政治的、思想的状況のなかでの錯綜した長い過程であり、それを経て、革新統一戦線と、その政府の成長強化がかちとられるのであって、さまざまな紆余曲折、後退、前進の予想しがたい複雑さを必ずともなうからです」(同大会挨拶)と余裕のある態度をみせました。

 これをもって共産党が柔軟化したとはとうていいえないでしょう。今日の共産党にも当てはまることですが、党の基本路線である綱領はそのままです。それに従来の二段階革命論、つまり民族民主統一戦線政府│社会主義政府(プロレタリアート独裁)の前段に民主連合政府を加えただけのもので、共産党独裁政権をつくるための入口の敷居を低くし、階段を下げただけでしょう。なんとしても日本国民を革命へと引きずり込んでいきたいという意欲は伝わってきますが。

「独裁」の訳語を「執権」に変える
 この党大会では「プロレタリアート独裁」の独裁は反共攻撃に利用されるとして「ディクタツーラ」の訳語を「執権」にすることにし、また綱領の「ソ連を先頭とする社会主義陣営」のうち「ソ連を先頭とする」を削除するなど、革命政党の批判をかわすために一段と厚化粧をほどこします。

 73年末といえば、オイルショックが襲ったときです。高度経済成長時代に終止符が打たれた日本経済最大の危機が到来し、共産党は出番を本気で考えていたのです。しかし、それが皮肉にも共産党の凋落の始まりになります。