実録・日本共産党

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―その恐るべき素顔と歴史を探る―
思想新聞より

実録・日共産党

戦後編19
  その歴史と恐るべき素顔を探る
除名の中共派が分派
共産党と内ゲバを展開
血みどろの組織争奪戦

 毛沢東から武装闘争を迫られ、慌てて帰国した宮本顕治書記長によって党内の中国共産党(中共)系(共産党は毛沢東一派と呼ぶ)が一掃されることになります。
 党内粛清は初めは密かに行われ、その後は『赤旗』紙面で毛沢東一派の極左冒険主義批判記事として大キャンペーンが張られます。
 こうして1966(昭和41)年9月から67年6月にかけて、中共派粛正の嵐が吹きました。中央委員の西沢隆二をはじめ30名の中堅幹部が除名されました。この後に、組織争奪の血みどろの闘争が展開されることになります。
 日本共産党から中共派の人物だけでなく、団体も大挙、分裂したからです。66年10月に西沢らは「毛沢東思想研究会」を設立、また日共山口県委員会は組織ごと中共派に走り「日本共産党山口県委員会(左派)」を結成、さらに日中友好協会から中共派が分裂して「日中友好協会(正統)」、ジャパンプレス・サービス社からは「東方通信社」、日本ジャーナリスト協会からは「日本ジャーナリスト同盟」、日本アジア・アフリカ連帯委員会からは「アジア・アフリカ人民連帯日本委員会」、極東書店からは「東方書店」、中国帰還者連絡会からは「中国帰還者連絡会(正統)」等々、中共派が分裂して多くの組織が作られました。
 これら中共派団体は67年2月28日深夜、東京・文京区にある善隣学生会館を襲撃する善隣学生会館事件を引き起こします。同会館に日本共産党系(日共系)の日中友好協会本部があり、中共派はこれを追い出そうと華僑学生らを動員、襲撃したのです。
 これに対して共産党は民青や全学連など400人を動員して鉄カブトとゲバ棒で武装させて対抗、実に1カ月にもわたって両者の間で30名以上の負傷者を出す、まさに血で血を洗う大乱闘が繰り広げたのです。中共派団体は善隣学生会館防衛闘争委員会を組織し、中国本国から数百万円以上の闘争資金が送られてきたといわれます。
 おりしも本国の中国では紅衛兵らによって文化大革命が展開されていました。日共から除名、分裂していった中共派はこれに呼応して日本国内でも過激な闘争を行うようになります。
 そして、すでに組織されていた反日共系全学連とも連帯し、集合離反、四分五裂をくり返し、「日本マルクス・レーニン主義運動中央委員会」や「日本共産党(左派)全国協議会」「日本マルクス・レーニン主義者同盟」「安保体制打破同志会」「国際反帝連帯集会」「全国学生解放戦線」等々を組織し、ここに中共系極左過激派が登場することになります。
 彼らは67年10月の佐藤栄作首相の東南アジア訪問阻止を叫んで機動隊とぶつかった第一次羽田事件に加わったり、蒋経国台湾国防部長訪日阻止闘争(同10月~12月)、第二次羽田事件(同11月)、原子力空母佐世保寄港阻止闘争(68年1月)、米軍王子病院設置粉砕闘争(同3月)などを繰り広げ、ついに70年安保闘争の主役の一翼を担うことになります。
 まさに日本共産党が生んだ鬼っ子、極左過激派
はこうして誕生したのです。過激派の幹部に元共産党員がいることはあまり知られていません。彼らは共産党と同じようにマルクス・レーニン主義を信奉しています。ただ革命のプロセスを巡って共産党と考えを異にし毛沢東思想を受け入れただけです。その本質はまったく同じです。

連合赤軍の「生みの親」も共産党
 ちなみに、こうした共産党から分派した日本共産党革命左派神奈川県委員会(京浜安保共闘)が、すでに58(昭和33)年に共産党から除名された学生らで組織された共産主義者同盟の一派、共産同赤軍派と合流したのが「連合赤軍」です。「連合赤軍」はあさま山荘事件、大量リンチ殺人事件を起こしますが、そうした兇悪、陰惨な行為の思想的背景に日本共産党の思想が存在していることを忘れるわけにはいきません。