実録・日本共産党

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―その恐るべき素顔と歴史を探る―
思想新聞より

実録・日共産党

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戦後編 42

党勢頭打ち顕著に
北朝鮮との関係を断絶

 共産党の党勢は80(昭和55)年の第15回党大会をピークにその後、頭打ち現象がくっきりと現れてきます。70年代後半の革新自治体崩壊やソ連のアフガニスタン侵略、そして82年11月に登場した中曽根康弘内閣の「戦後政治の総決算」路線が共産党包囲網を形成したからです。
 第15回党大会と第17回党大会(85年11月)の党勢を比較すると次のようになります。
「赤旗」日曜版=283万部→258万部
「赤旗」日刊紙=72万部→60万部
 党員=43.4万人→46.9万人
 党勢の頭打ち現象は「赤旗」部数が低落してきたことではっきりと読み取れます。党員数についてはその後も伸び、87年11月の第18回党大会で48万4千人のピークに達しますが、それ以降、低落していくことになります。80年代半ばに共産党の党勢が頭打ちになったことは明白です。
 とりわけ青年層での共産党離れは著しいものがあります。84年から86年にかけて民青同盟の同盟員数は21万人、「民青新聞」部数は20万部を誇っていましたが、80年代後半に奈落の底へと転がり落ち、90年代に入ると2万人・4万部に低落します。驚異的な減少ぶりです。
 80年代半ばは米国のレーガン大統領、英国のサッチャー首相、そして日本の中曽根首相が国際的には対ソ国際戦線を構築し、国内的には「小さな政府」を標榜して行革路線を推進しました。共産勢力はソ連からの支援を背景に「大きな政府」に巣くってきたのですから、追いつめられていったのは当然でしょう。
 85年11月の第17回党大会で宮本議長は現在を「戦後第二の反動攻勢期」と位置付け、中曽根内閣の「戦後政治の総決算」路線に対する全面対決を表明しました。世界の潮流を「戦後第二の反動攻勢」と言わざるを得ないほど共産党は不利な立場に立たされていったといえます。
 共産党が追いつめられてきたのは国際共産主義の蛮行が次々に明らかになったことも原因のひとつです。ソ連軍による大韓航空機撃墜事件(83年)や北朝鮮によるラングーン韓国閣僚爆殺事件(同)、さらに北朝鮮警備艇による日本漁船「第36八千代丸」銃撃・船長殺害事件などがその典型です。国際共産主義への日本国民の批判の目は当然、同じ共産主義思想を信奉する日本共産党に向かいます。
 そうした背景から共産党は、北朝鮮との関係を清算し、北朝鮮との対立姿勢を鮮明にせざるを得なくなります。
 共産党はそれまで日韓条約反対、北朝鮮承認の2つを韓半島政策の基本方針としてきましたが、第17回党大会決議では「第36八千代丸事件」を非難し、金日成「主義」や金日成「思想」を世界的な指導思想として礼賛することを「断固として拒否する」と述べ、朝鮮労働党を「覇権主義の一つの野蛮な典型」と非難しました。
 ついに共産党は韓半島政策を転換したのです。それは韓国と北朝鮮の2つの政権を認める、双方と実務的関係を結ぶとしながら「全斗煥政権は承認できない」という中途半端なものでしたが、北朝鮮との関係断絶は微妙な変化も生みだします。
 それは党大会で綱領の一部を書き直したことに現れています。綱領は改正前には1950年の韓国動乱について「米国帝国主義は朝鮮にたいする侵略戦争をおこないながら」と、韓国動乱が米国によって引き起こされた侵略としていましたが、改正後は「米国帝国主義は…朝鮮戦争を機会に」と、米国の犯行とした見解を削り北朝鮮による武力南侵であったことを暗に認めたのです。

韓半島政策をついに転換へ
 しかし、これほど無責任な話はありません。それまで35年間にわたって米国が侵略して韓国動乱が起こったとし、日米安保・自衛隊に反対してきたのが共産党です。北朝鮮による南侵を認めるならそうした軍事的脅威に対抗する日米安保・自衛隊も認めるべきですが、そちらは棚上げにして北朝鮮だけを非難するのですから、いかに共産党の政策に一貫性がないか知れます。

写真=党勢頭打ちで部数が減少していった「赤旗」