実録・日本共産党

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―その恐るべき素顔と歴史を探る―
思想新聞より

実録・日共産党

戦後編18

毛沢東、武装闘争を促す
大慌てで反中共に
北ベトナムへの兵器支援を画策
 ソ連派の志賀一派を追い出し、九党大会で米英ソの部分核停条約を非難する決議を出すなど、1964(昭和39)~65年頃の日本共産党は完全に中国共産党(中共)寄り路線をひた走っていたといえます。
 ところが66年になると、一大事変が起こることになります。それは毛沢東から武装闘争を促されたことです。
 ことの起こりは、九党大会の決議に従って、ベトナム支援のための国際統一戦線を早急につくるために、同年2月、宮本顕治書記長を団長とする共産党代表団が、北ベトナム、北朝鮮、中国の三国を訪問したことに始まります。
 宮本代表団はまず北ベトナムへ行きます。北ベトナムはアメリカの北爆開始から約一年経っており、中国製の武器だけでなく、ソ連のミグ戦闘機や地対空ミサイルなどの近代兵器を必要としていました。ところがソ連に支援を仰ぐとなると、ソ連はそれを口実に近代装備の兵力をもって中国大陸を横断することになりかねません。それを恐れて中国はソ連の兵器支援を露骨に妨害していました。それが北ベトナムの悩みのタネだということが分りまました。
 そこで宮本書記長はこの解決案として、「修正主義」の問題とベトナム支援の問題とを一応区別して折衝したらよいのではないかと次のように考えました。
 ソ連共産党が修正主義的偏向を示すようになったのは、ソビエト国内が政治的・経済的に安定してきて日和見主義的になっているからで、“平和共存”などを唱えて兄弟党の援助が消極的になっているのもこのためだ。しかし、その姿勢もフルシチョフからブレジネフに変わってからは変化し始め積極化してきている。だから修正主義についてはこのまま批判を続けるとして、それとは一応別個の問題としてベトナム支援と国際統一戦線のことを打ち出せば、あるいはソ連も話に応じてくれるかもしれない・・。
 そこで共産党代表団は3月3日、北京に立ち寄った時にこの腹案を中共側幹部に提起してその意向を打診しました。しかし、中共側はこれに同意しませんでした。しかし、次に訪問した北朝鮮で金日成にこの話を持ちかけると、金日成は全く異存がないということでした。意を強くした宮本書記長は再び北京に舞いもどり、周恩来らと日中共同コミュニケの作成に当たったのです。

毛沢東が一喝し「戦争に備えろ」
 中共と日共の見解にはなお大きな食違いがあり、共同コミュニケの内容は中身のない抽象的なものとなりましたが、ともかく採択にまでこぎつけ、その成立を祝う祝賀会まで開かれたのです。
 ところがその案が最後に毛沢東のところに持ち込まれれると、彼はいきなり独断でこれを破棄してしまったのです。毛沢東との会見場に宮本書記長が姿を現わすと、毛沢東は開口一番、こう怒鳴りつけました。
 「君たちはソ連の修正主義と同じ平和共存主義の合法主義者だ。戦争を回避しては世界革命はできない。恐らくここ一、二年の間に中米戦争が起きるだろう。となれば、アメリカは北ベトナム国境、朝鮮国境、台湾、沖縄の4ヶ所から中国へ侵入してくる。ソ連も同様、侵入してくるだろう。その時、君たちは中国を援助し、また自身の革命のために武装蜂起する腹を決めているのか」
 そして毛沢東はかつての「五一綱領」にもどって武装闘争方針を取るべきだと教唆したのです。これには宮本も二の句がつげず、結局、会談は決裂に終わり、宮本一行は急きょ帰国。直ちに四月下旬、第四回中央委員会を招集します。
 中央委の席上、宮本書記長は、激しい怒りをこめて「毛沢東はもう老衰して頭がボケてしまっている。その上、思い上って党内でも孤立している」と罵りながら報告し、十党大会を目指して明確な反中共路線を打ち出しました。これには西沢隆二がひとり反対しましたが、その意見を封殺し、今度は全党的な中共批判に乗りだします。