実録・日本共産党

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―その恐るべき素顔と歴史を探る―
思想新聞より

実録・日共産党

17 戦後編5
その歴史と恐るべき素顔を探る
コミンフォルム批判
平和革命論を否定 ソ連の傀儡機関コミンフォルム

 インフレなどの社会不安を背景に、共産党はにわかにその勢力を拡大させ、党員の間では「革命前夜だ」との声が聞かれるようになりました。各地で騒擾事件が起こり、押せ押せムードが共産党内に覆っていたのです。
 そこへ晴天の霹靂のように打ちおろされたのが、1950(昭和25)年1月6日のコミンフォルムの「野坂批判」です。
 コミンフォルムとは、スターリンが米国のマーシャル・プランに対抗して47(昭和22)年10月、東欧9カ国共産党をして組織させた国際共産党情報局のことで、戦前のコミンテルンに替わって世界共産化を指導するためのソ連の傀儡機関です。
 そのコミンフォルムが野坂参三の平和革命路線について「それはアメリカ帝国主義を美化するものであり、マルクス・レーニン主義とは縁もゆかりもない」と痛烈にこきおろしたのです。そして「路線を転換して反米闘争に立ちあがるよう」に要求しました。これは事実上、武装闘争を促す宣告文といえます。
 ちょうどその頃、アジア情勢は重要な転機に直面していました。48年9月に朝鮮民主主義人民共和国が、また49年10月には中華人民共和国が成立し、国際共産主義勢力はアジアに確固たる基盤を得ました。ス
ターリンはモスクワに毛沢東と金日成を呼び寄せ、アジア共産化を一挙に行おうと相談します。 そして打ち出されたのが「コミンフォルム批判」です。ちなみに、この後の2月には、日本をあからさまに仮想敵国とした中ソ友好同盟条約(30年間の有効期限)が結ばれ、ソ中朝同盟が成立します。
 この三者会談で韓半島の38度線を突破・南侵の機会を伺い、仮に南侵した場合、米軍の後方基地になる日本を攪乱するために日本共産党に武装闘争を行わせ、韓半島を共産化した後、余勢を駆って日本も共産化する、というのがスターリンらの思惑でした。
 こんな陰謀がめぐらされていることも知らず、ちょうどその頃、米国は韓半島を防衛ラインから外してしまいます。つまり、米国は防衛ラインを日本列島―沖縄―台湾に敷き、韓半島を除外してしまったのです。
 北朝鮮はソ中の援助を得て38度線に1カ月にわたって軍の大部隊を集結、50(昭和25)年6月25日、突如として南侵を開始します。こうして朝鮮動乱が勃発することになります。
 このような歴史的事実を見れば、コミンフォルムの「野坂批判」が何を意味しているか明らかでしょう。まさに日本共産党をして北朝鮮の韓国侵略、ソ連の日本侵略のお先棒を担がそうとしたのです。

野坂・徳田に反発し「批判」に同調
 さて、コミンフォルムの野坂批判は、日本共産党内に深刻な波紋を呼び起こすことになります。徳田球一書記長は一週間後の1月12日、「『コミンフォルム批判』は日本の実情をよく知らずに行われたに違いない。わが党ならびに同志(野坂)の言動を批判することは重大な損害を人民ならびに、わが党に及ぼす」との「所感」を発表します。野坂平和路線は表現が一見、親米的に見えるが実質はそうではなく、党の路線に誤りはないと弁護したのです。
 ところが、党内には徳田の「所感」に猛反発する幹部が登場します。中西功や志賀義雄、宮本顕治らがそうです。彼ら反主流派は、「批判」は党の姿勢が本質的に誤っていることを指摘しているのであり、党首脳部(主流派)はこれを受けいれるべきだと迫りました。
 そうした中、1月17日に中国共産党機関紙「北京人民日報」がコミンフォルムの「批判」を支持して、「日本帝国主義とそれを支持するアメリカ帝国主義」は日中両国人民の共通の敵であり、野坂の「平和的方法で国家権力を勝ち獲るためにブルジョアを利用できる」とする理論は誤りであり、徳田の「所感」の内容は遺憾だ、野坂が誤りを訂正することを希望する、と勧告してきたのです。
 共産党内部は、この「人民日報」の追い討ちに蜂の巣をつついたような大騒ぎとなりました。