実録・日本共産党

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―その恐るべき素顔と歴史を探る―
思想新聞より

実録・日共産党

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戦後編39

ソ連KGBが反核運動
共産党は第五列になう

 ソ連のアフガニスタン侵略で幕開きした1980年代、ソ連は西側諸国に対してもう一つの攻勢を仕掛けてきました。それが反核運動です。

米巡航ミサイル配備阻止が狙い
 81年2月、ブレジネフ書記長はソ連共産党第26回党大会で「我々はこれから反核反戦平和運動を全世界に展開しなければならない」と表明、KGB(ソ連国家保安委員会)の副議長3人を党の中央委員に昇格させました。そのうえで同年5月末のKGB全国指導者会議でブレジネフ書記長はKGBに対して「反核運動を全世界に広げなければならない」と檄を飛ばしました。
 こうして世界各地で反核運動の火の手が上がったのです。
 なぜソ連はこの時期に反核運動を展開する必要があったのでしょうか。
 それはソ連が70年代に欧州で核攻勢を強め、東欧諸国の鉄のカーテンの周辺にSS20という強力な戦域核ミサイルを配備。米国を中心とした北大西洋条約機構(NATO)加盟諸国の「核の傘」を脅かしたのに対して、79年12月、NATO理事会は西ヨーロッパにSS20に対抗する米国製新型ミサイル(パーシング?U・中距離ミサイルと巡航ミサイル)を83年までに配備することを決めたからです。
 西欧をいわゆるフィンランド化させ、思いどおりに操ろうとしていたソ連にとっては、NATOの巡航ミサイル配備は痛手です。そこでソ連は西側諸国に反核反戦運動を起こし、NATOの決定を反故に追い込もうと画策したのです。
 ソ連KGBによる反核運動などといえば、西側諸国ではそう簡単に国民運動になりません。そこでソ連はKGBのフロント組織を総動員し、文学者や科学者、芸術家など知識人による大衆運動というスタイルを作り上げました。
 そのKGBは日本でも反核運動を仕掛けてきました。80年11月にKGB人脈に連なる西ドイツ作家同盟のハンス・ブロイエルという人物が訪日し、反核運動を呼びかけ、これに進歩的文化人らが呼応したという形で運動ははじまりました。81年1月20日、280人の文学者による「核戦争の危機を訴える文学者の声明」が発表され、日本版反核運動はスタートしました。
 この声明は次のようにいいます。
「最近、中性子爆弾、新型巡航ミサイルなどの開発によって、限定核戦争は可能であるという恐るべき考え方が、公然と発表され実行されようとしている。私たちはこのような考えと動きに反対する」
 ここにはソ連のSS20の話はまったくでてきません。当時、中性子爆弾や巡航ミサイルを開発したのは米国ですので、反核はいつの間にか反米になっています。また声明は「非核三原則を厳守せよ」と日本政府に求めています。つまるところ、反核運動は反米・反米軍・反自衛隊運動です。
 こうなると、まさに共産党の宮本路線そのものということになります。ソ連は文化人らを正面に立て、共産党や社会党、さらに過激派なども総動員して、日本に反核運動を本格化させました。
 こうして反核運動に火がつくと、結局、共産党が運動の中心に座わるようになりました。フロント組織や地方議員など、その組織動員力で共産党を凌駕する組織がなかったからです。それを期待してソ連は79年末に日ソ共産党関係正常化を果たしたのです。
 アフガン侵略では共産党はソ連批判を行いましたが、それは表面上のこと。反米などの政策が一致している以上、ソ連の第五列になるほかありません。

ソ連の対日工作が本格的に始動
 そうしたなか、81年末、国連軍縮委員会の一員という肩書きでゲオルド・アルバートフという人物が突然、来日しました。彼はソ連共産党中央委員で党国際部の「米・カナダ研究所」所長。彼こそ、KGBの反核運動の総責任者です。アルバートフに同道したのは、イワン・イワノヴィッチ・コワレンコ。彼も党中央委員で国際部副部長。実は対日スパイ工作の最高責任者なのです。
 コワレンコによる対日工作が本格的に始まり、以降、共産党はその一翼を担うことになります。