実録・日本共産党

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―その恐るべき素顔と歴史を探る―
思想新聞より

実録・日共産党

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戦後編34

京都共産府政が落城
勝共に敗北、革新ブーム終焉


府知事選では京都中で共産党vs勝共の論戦が繰り広げられた
「70年代の遅くない時期に民主連合政府をつくる」という共産党の構想は76(昭和51)年12月の総選挙で20議席減の19議席に大幅後退し、さらに77年7月の参院選でも敗北したことで遠くへ退きました。
 この退潮傾向に歯止めをかけ、反撃への狼煙をあげようとしたのが、78年4月の京都府知事選です。京都府政は1950年以来、実に28年間にわたって蜷川虎三知事のもとで共産府政が続いた「革命の牙城」「革命の灯台」であったからです。「京都人民共和国」といわれた蜷川府政ですが、さすがに年齢には勝てず八選を断念、共産党は蜷川後継に杉村京都大学教授を擁立しました。
 これに対して自民党は参院議員の林田悠紀夫氏を擁立。社公民も候補を擁立したので、府知事選は3つどもえの戦いとなりました。基礎票では社公民候補51万、杉村候補43万(共産党23万プラス蜷川個人票20万)、林候補37万。社公民は寄合所帯なので、杉村候補が圧倒的に優勢という下馬評でした。
 共産党は民青を全国動員、京都中で太鼓や踊りでデモンストレーションを繰り広げ、さらに宮本委員長自ら京都に乗り込み陣頭指揮をとりました。3月18日、共産党は総決起大会を開催し、ここで講演した宮本委員長は「もし民主府政が倒れるようなことがあったなら、できるのは勝共連合府政である」と絶叫したのです。
 宮本委員長は勝共攻撃を活動の中心に据えよというのです。この宮本発言を受けて共産党は全府下で勝共攻撃の「赤旗」号外を配布します。「赤旗」配布は選挙運動ではなく販売拡大の商業活動というのです。そこで勝共連合は勝共攻撃を論破する「思想新聞」号外を配布、さらに両者が宣伝カーを繰り出して論戦を展開したため、京都中が共産党VS勝共一色に染まりました。
 選挙選が終盤になった3月30日、再び宮本委員長が京都に乗り込み府立体育会館で1万人決起集会を開催しました。会場の雰囲気が最高潮に達したところで、宮本委員長が登壇しました。
 ところが、ここでとんでもないハプニングが起こります。宮本委員長が一言しゃべろうとすると、会場から「待ってました、人殺し!」との声が響きわたったのです。若い女性が宮本委員長のリンチ人殺し事件を追及したのです。たちどころに女性は「防衛隊」によって会場から引きずりだされました。
 ようやく騒ぎが静まり宮本委員長が講演しようとしますと、今度は「小畑はどうした、網走に帰れ!」といったヤジが別の女性から掛かりました。女性は同じように会場から引きずりだされましたが、宮本委員長が講演しようとするとまた「人殺し」のヤジが飛び。そして引きずり出されていきます。いずれも勝共の女性会員です。
 こんなヤジのシーンが次から次に続くものですから、会場の人々はまるでスパイ狩りのようにキョロキョロ見回します。こんな状態で宮本委員長の講演が盛り上がるわけがありません。決起集会は散々でした。
 翌日から共産党は一層、勝共攻撃を展開、これに対して勝共連合は「リンチ殺人事件」を追及。四条河原町をはじめ京都中の繁華街で論戦が繰り広げられたのです。宮本委員長が市内を宣伝カーで回ると、勝共連合の宣伝カーが「リンチ殺人事件」を追及。それを阻止しようとする民青員らが取り囲んだりしたため、京都中が騒然となりました。
 共産党は当初、蜷川個人票や社会党票を取り込むために微笑作戦を中心に据え、杉村候補の学者イメージを全面的に打ち出していこうしました。しかし宮本委員長の勝共攻撃を皮切りに選挙戦は共産党VS勝共となり、争点は「リンチ殺人事件」「共産党府政」に移ってしまいました。その結果、中道候補の存在が吹き飛んでしまい、蜷川個人票も杉村陣営から離れました。
 結果は、林候補が50万票を獲得して当選、杉村候補は43万票、社公民候補は自共対決に沈んで20万票でした。こうして30年近く続いた「革新の牙城」「革新の灯台」はついに落城し、革新ブームに終止符が打たれたのです。