実録・日本共産党

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―その恐るべき素顔と歴史を探る―
思想新聞より

実録・日共産党

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戦後編38

社会党が「共産排除」
衆参ダブル選で大敗北

 1980年代はソ連のアフガニスタン侵略(79年12月30日)によって幕開けしたといっても過言ではありません。
 このことが何を意味しているのか、後から見てみるとそれはソ連・共産圏が崩壊していく「最初の一歩」となったと言えるでしょう。
 ソ連の脅威に目覚めた米国民がカーター大統領に見切りをつけ、80年にタカ派のレーガン大統領を圧勝させます。それに歩調を合わせるかのように英国のサッチャー、ドイツのコール、そして日本の中曽根政権が国内政治経済体制の再構築(すなわち新自由主義路線)と西側諸国の結束を図り、ソ連をしてペレストロイカ路線へと誘い、結局、89年11月の「ベルリンの壁」崩壊へと導くことになります。
 日本共産党にとってもソ連のアフガン侵略は党勢退潮への一里塚となったのです。
 共産党はアフガン侵略に10日間も沈黙したのち、80年1月10日に声明を発表しますが、中身があいまいなために国民の疑問をふり払うことはできませんでした。
 そんな中、同年1月に全野党共闘路線を採っていた社会党が党大会で「共産排除」を明確に打ち出しました。社会党の全野党共闘は全野党といっても実体は「社共中軸」でした。共産党はこれに乗じて「ひさしを借りて母屋をとる」とばかりに革新自治体をはじめ各地で党勢拡大に利用してきたのです。民主連合政府構想の柱も社共共闘でした。
 ところが、社会党は公明党に突き上げられて「共産排除」すなわち社公民路線へと軌道修正したのです。共産党が親ソ路線を鮮明にしたことで社会党内の親中派が反発し、社共中軸に決別したともいわれます。
 共産党はいよいよ孤立化していったのです。宮本委員長は社会党の変心に烈火の如く怒ります。2月に開催した共産党第15回大会で宮本委員長は演説の3分の1を割いて社会党攻撃を行いました。宮本委員長は、社会党と公明党との連合政権構想を「暴挙」と断じ「この転換に踏み切った社会党について何らまともな期待を持つことは、日本の真の革新勢力の前進にとっても、国際的にも不毛の混乱をもたらす」を激しい非難を浴びせたのです。
 実はここに巧妙な共産党の思惑が秘められていました。
 ソ連のアフガン侵略後に国民からわき起こる「反共攻撃」を、社会党攻撃によって避けようというのがそれです。同年六月に予定されている参院選で「守りの選挙」に陥らないために、社会党攻撃と自民党の腐敗攻撃、さらにはアフガン問題での「ソ連批判」を強めて「攻撃の選挙」を展開して危機を打開しようというのが共産党の思惑でした。
 社会党攻撃は「自民党政権の延命に手を貸す」とのキャンペーンとして展開できます。いずれにしても宮本演説は社会党への決別宣言となり、以後、「赤旗」は連日のように「社会党の右転落」「革新の大義を放棄した社会党」といった社会党攻撃をくり広げました。
 しかし、5月になると予期せぬ事態を迎えます。社会党が提出した内閣不信任案が自民党非主流派の欠席で成立し、大平正芳首相が解散総選挙に打って出たのです。このため6月の参院選は衆参ダブル選挙となりました。

「勝共ばりの反共宣伝」に敗北きす
 しかも選挙戦の最中に大平首相が心筋梗塞で倒れて急死。この不測の事態で自民党が結束して「弔い合戦」を展開。また社会党と公明党も共産党攻撃に加わり「各党が勝共ばりの宣伝」(選挙後の宮本委員長会見)を行ったのです。その結果、ダブル選挙への国民の関心が高まり、組織政党には不利とされる高投票率となりました。
 選挙結果は共産党を直撃します。衆院では12議席減の29議席、参院では全国区で現職3人が落選、地方区では牙城の大阪で議席を失い計4議席減の大敗北でした。最大の敗因は親ソの「宮本路線」にあることは歴然としていましたが、宮本委員長は「共産党包囲網を打ち破ることができなかった」と戦術的敗北にとどめようと躍起になります。