実録・日本共産党

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―その恐るべき素顔と歴史を探る―
思想新聞より

実録・日共産党

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戦後編 22
70年安保闘争を利用
巧妙に勢力を拡大
過激派が荒れ 16年ぶり騒擾罪

 70年安保闘争はまず大学内で燃え上がってきます。65年の慶應義塾大学の学費闘争に始まり、革命の基地を求めて66年には60大学、67年には90大学、68年にはなんと116大学(全国の大学の三分の一近く)に紛争が広がり、とくにその闘争の焦点は「権力のとりで」東大と「マンモス大学」日大に集中してくることになります。
 反日共系全学連は67年10月20日の羽田闘争に続いて、68年1月17日には佐世保、同2月20日には王子野戦病院、同3月10日には成田空港と、次第に闘争手段を過激させ、ヘルメット・ゲバ棒・火焔ビンから、さらに公道上にバリケードを築く“カルチェラタン方式”まで現われます。
 その大詰は68年10・21日の国際反戦行動デーにおいて中核・ML・第4インターが新宿駅、社学同が防衛庁、革マル・反帝学評が国会を狙い打ちにするなど、暴力をほしいままに振るまいます。そこで警察当局は昭和20年代に共産党の中核自衛隊が荒れ狂って以来、16年ぶりで騒擾罪を適用しました。
 一方、日本共産党(日共)系は反日共系を闘争の前面に押立てて、危険な憎まれ役を全部彼らにやらせて、その成果だけをまきあげ、しかも暴力には反対のごとくに装うという狡猾無類のやり方で勢力を拡大してきました。とくに教授層に根深く浸透して上と下から大学をはさみ打ちにするという手段で逐次その実権を奪取していきました(東大はその典型といえます)。
 また革命の基盤として広く大衆を動員するため、「反安保・沖縄」統一戦線の結集に力を注いできます。69年は、70年反安保闘争の前年でもあり、左翼運動は三位一体(反安保・沖縄・大学闘争)を唱えて互いに有機的な関連のもとに精力的に闘争を進めてきました。
 まずその幕開きは同年1月、前年の日大闘争に続いて台風の目となった東大・安田講堂(安田砦と自称)の攻防です。これは19日、機動隊が奮起して落城させましたが、東大入試は中止となります。しかし、大学闘争の象徴的な安田講堂事件が収拾するとそれ以後、反日共の全共闘系は勢力を失なっていくことになります。そこですかさず介入してきたのは日共民青です。彼らは、東大を教授会と自治会の上下から支配しようと試みます。東大はこうして日共ペースで”正常化”されていくことになります。
 東大紛争は収拾されましが、大学闘争の嵐は全国に広がっていき、2月頃からは青山・関学・同志社などキリスト教系の学園まで燃え拡がっていき各地で機動隊とのぶつかり合いを続けました。
 そこで政府は69年8月3日、大学運営臨時措置法を「抜打ち」採決し大学正常化に当たることにしました。
 同法は大学が管理する施設の占拠、封鎖、授業放棄などが行われた場合、学長は直ちにその状況を文相に報告し、教職員とともに協力してその収拾をはからねばなりません。そのために学長自身に権限を集中させ、それでもなお3カ月経っても収拾できない場合には、文相が審議会に図って廃校・解体編制などの措置が採れるようになります。大学を正常化させるにはこうした措置しかありません。国の財産を預かる者として当然の規定が明文化されといえます。これにより、広島大を皮切りに全国の大学紛争は終結に向かっていきました。
 一方で、沖縄問題を解決しようと佐藤栄作首相が訪米しニクソン大統領を会談をもとうとします。ところが過激派は沖縄返還を主張しているにも関わらず佐藤訪米阻止を掲げて火炎ビン闘争を激化させるという支離滅裂な闘争を展開します。その結果、国民からますます孤立化し、支持を失っていきます。
 その隙に乗じて共産党は著しき勢力拡大を図ります。69年7月の東京都議会議員選挙では前回の9名から一躍に十八名に倍増、社会党は逆に21名減の24名になり第三党へと転落する惨状です。共産党は70年安保闘争を過激派に戦わせておいて、実はしっかりと確保したのです。