実録・日本共産党

文字サイズ

―その恐るべき素顔と歴史を探る―
思想新聞より

実録・日共産党

38

初めての思想的敗北 勝共の公開討論会 逃避

 30万党員、200万『赤旗』購読者、40衆院議席・・共産党は党創立50周年の歴史的な72年、まさに絶頂期にあると浮かれていました。
40回にわたる理論戦の要請
 しかし、その水面下では初めて共産主義思想に対する本格的批判にさらされ、思想的敗北をきすという危機的状況を迎えていたのです。  それが国際勝共連合による思想戦です。同連合は68年4月に久保木修己会長を中心に設立された思想啓蒙団体で、「共産主義は間違っている」をスローガンに共産主義の批判とその克服策を「勝共理論」として提示、全国各地の街頭や大学内で思想戦を展開していました。こうした思想を軸にした国民運動は日本では初めてといえるものです。  同連合は71年12月、東京・共立講堂に3000人を結集して「勝共中央大会」を開催、共産党に対して「公開理論戦」宣言し、両者で公開討論会を開くように求めました。共産党が公の場でこのような討論会開催を要求されたのも初めてのことです。同連合は72年4月25日と7月16日の2度にわたって、東京・代々木の共産党中央委員会を訪問、公開理論戦の開催と12項目からなる公開質問状を提出しました。共産党はいずれも受け取りを拒否しました。そこで同連合は東京をはじめ各地の共産党委員会に対して勝共連合と共産党の理論戦を開くよう働きかけました。その働きかけは40回に及びました。  これに対して共産党は「理論戦には一切応じるな」と全国通達を出し、勝共連合の要請をことごとく黙殺あるいは拒絶しました。それどころか、暴力をふるったり共産党系弁護士を使って集会を妨害するなど、あらゆる手で公開理論戦を潰そうと躍起となったのです。  こうした理論戦に着目したのがマスコミです。毎日テレビ放送(東京12チャンネル)は勝共連合と共産党に対して「ドキュメントーク」(夜11時からの50分番組)で公開討論会を開きたいとの申し入れを行いました。勝共連合はこれを受諾、ところが共産党は「勝共連合は職業的反共団体であり、そうした団体と同席するだけですでにその存在を認めたことになる」との理由で申しれを拒否しました。その結果、「ドキュメントーク」は72年7月21日、「何が日本の真理か」をテーマに勝共連合から青年5人が出席、評論家の石堂淑朗氏との間で共産主義問題などを論ずる形で行われ、全国放映されたのです。  この放映に対して共産党は『赤旗』(同7月25日付)に「反共デマに公器提供・東京12チャンネル『勝共連合』を登場させ」との見出しでデカデカと批判記事を掲載、自ら出席を拒否したことを白日の下にさらしてしまったのです。  宮本顕治委員長は70年3月、京都で「思想に対しては思想でたたかう。そして本当の言論戦のなかで、なるほどこういう思想が正しく、こういう思想が誤っているということを、日本国民が知るというのが、本当に日本国民の支持を得る必要な条件であります」と胸を張りました。しかし、勝共連合による思想戦には逃げの一手をきめこんだのです。

学生党員から疑問噴出する
 このような共産党の思想戦回避に党内に動揺が広がっていきます。とりわけ学生党員がそうでした。大学キャンパスでの思想戦を回避させてきた共産党中央に、民青など学生党員の間から中央批判が飛び出す一方、共産主義理論そのものへの疑問も出されます。折しも連合赤軍事件を契機に大学内では学生の共産主義離れが急速に進んできました。  危機感からか、共産党中央委員会発行の「学生新聞」(72年11月15日付)で「勝共連合の珍妙な『経済学』」との勝共理論への反論を掲載します。しかし、この反論はマルクスの労働価値説の矛盾をさらに露呈するもので、とうてい学生らを納得させる内容ではありませんでした。  こうして党創立50周年、そして史上最大の党勢下で密かに共産党の挫折が始まったのです。   ●今から30年前の1972年、本連合とのテレビでの公開討論会を、共産党は一方的に「敵前逃亡」した