実録・日本共産党

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―その恐るべき素顔と歴史を探る―
思想新聞より

実録・日共産党

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宮本が指導権を掌握
学生ら反発、党本部占拠

宮本主導で新綱領の作成へ

 六全協(第六回全国協議会)の歴史的政策転換が成功すると、すぐそれに引き続いて、1955(昭和30)年8月11日、「六全協政策発表記念大演説会」が開かれました。この席上、突如として地下から野坂参三、志田重男、紺野与次郎の三幹部が姿を現わし万雷の拍手を浴びました。
 これですでに地上で活動していた志賀義雄らと合わせて役者が全部、出整い、これまで地下で行なわれていた暗闘が、地上の桧舞台で公然と演じられるように変っていくようになります。
 まず同年12月、かつての地下活動の立役者であった志田重男が、数千万円にのぼる党の公金を酒と女のために消費していたと暴かれ査問を受け、失踪します。これをきっかけに宮本顕治は党員文学者を動員して主流派の行状を筆でたたき、主流派の権威を完全に失墜せしめることに成功。
 やがて時を見て、翌56年6月6日、志田を書記局員から解任。志田直系といわれる惟野悦郎も地下時代の婦人党員への暴行事件を口実に中央委員を罷免。こうして徳田主流派の二本柱、伊藤律と志田重男の信頼は完全に壊滅させられ、党の主導権は宮本、袴田里見ら国際派の手に移っていくことになります。
 ここで宮本は、これまで主流派が自己の存在のよりどころとしていたモスクワ製の「五一年綱領」を破棄して新しく日本の国情に合った現実的な新綱領を作成しようとします。それによって二派の対立を解消、思想・組織両面での再統一をはかっていこうとします。
 そこで早速、新綱領の草案が宮本を中心とする12人の委員会によって一応の形にまで仕上げられました。これができると、57年9月24日、第一四回中央委員会総会を招集し、この採択を全党討論にゆだねました。その草案の骨子は、日本革命の当面の戦略目標を「米帝国主義」と「日本独占資本」の二つの敵に置き、当面の日本革命の性格は「人民民主主義革命」だとする点にあります。
 しかし、これには武井昭夫ら全学連グループが猛然とかみつきます。なぜ全学連グループは反対するのでしょうか。それは、現在の党の指導体制が国際派と主流派との妥協の産物であって、そのため国際派を支えてきた若手幹部の意見が十分に汲みいれられず疎外されているというところにあります。
 折しも前年2月14日には、ソ連共産党第20回大会でフルシチョフが驚天動地のスターリン批判をやってのけ、以来、スターリン主義の清算、すなわち個人的な権威によって全党を上から統制するのでなく、下からの意見を汲みあげて民主的に党を運営せよという「自由化」への要求が世界的な風潮となってきました。
 その反スターリン主義の旗手を自ら任じていた全学連グループは、この綱領草案に因縁をつけて指導部を叩きはじめたのです。武井らは宮本草案に反対して、当面の敵を「日本独占資本」一つにしぼり、革命の性格を「社会主義革命」だと主張しました。
 しかし、宮本にとってはこれは明らかに現実のアメリカの国力を無視した極左観念論であって現実主義でありません。宮本はなんとか学生たちを説得しようとして58年6月1日、主要学生党員約120名を党本部に呼びました。だが学生たちは宮本の説得を聞きいれず、逆に代々木の党本部を丸一日、暴力的に占拠するという挙に出たのです。
 党本部もまた容赦せず、学生党員のうち首謀者21名を除名。100名ちかくを反党分子ときめつけ党活動停止処分にしました。処分された学生党員たちは烈火のごとくに憤り、「革命を忘れた日共」にはもはや労働者の前衛党たる資格はないと直ちに「共産主義者同盟」を組織。全学連の指導権を日共から奪いとってしまいました。
 ここから60年安保闘争で勇名をとどろかし、その後、四分五裂のセクトと過激な武装闘争に明け暮れる、御存知「反日共系」全学連が誕生してくるのです。