実録・日本共産党

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―その恐るべき素顔と歴史を探る―
思想新聞より

実録・日共産党

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戦後編 -25-
創立50年に30万党員
統一戦線が奏功する

 70年代前半は、宮本路線が自民党政治に批判的な一部国民の支持を取り付けた「共産党絶頂期」と位置付けることができるでしょう。

宮本―不破体制で路線を固める
 61(昭和36年)の八党大会以後の宮本綱領路線なかんずく“統一戦線”結成路線が、見事に当たったのがこの時代です。70年4月の京都府知事選では20年の蜷川体制を持続させ、“70年代の緒戦”を飾りました。同6月23日の安保自動延長決定の日には、社会党・総評を抱き込んでの“統一実行委員会方式”を成功させ、全国で150万人の動員を行いました。
 この“統一戦線”の成功に自信を深め、同年7月1日から1週間にわたって第11回党大会を開催します。同大会は、完全非公開だった過去の慣例を破って党史上初めてマスコミ関係者に公開されました。
 この11党大会では(1)「日本の革命運動を最大限に発展させること」として、数十万の党員、数百万の機関紙記者、各階層に不抜の党組織確立、国会に数十名の議員団、地方自治体のすべてに議員団をもって政治的発言力を強化。全党の政治的理論的水準を高めること、(2)インドシナ侵略に反対する反帝民主勢力の国際統一戦線の強化、(3)国際、国内の共産主義勢力との団結正常化の促進―をうたう党大会決議を採択しました。
 この大会のもう一つの特徴は宮本路線を固めるために党組織を改めたことです。すなわち委員長―書記局長体制を採り、宮本書記長が委員長
に就任し、後継者として不破哲三書記長を任命したのです。これに伴って野坂参三を中央委議長に棚上げし、宮本―不破ラインをスタートさせたのです。
 さらに、国内に高まる左翼的風潮の気を敏感に感じ取った宮本委員長は、巧みな統一戦線工作に精力的に乗り出します。71年1月には、(1)日米軍事同盟と手を切り日本の中立化をはかる、(2)大資本中心の政治を打破し国民のいのちとくらしをまもる政治を実行する、(3)軍国主義の全面復活、強化に反対し、議会の民主的運営と民主主義の確立をめざすという三つのスローガンで統一戦線の呼びかけを展開。各地に『明るい革新…をつくる会』を結成しました。
 これに社会党支持者や左翼マスコミなどが巻き込まれ、東京、大阪、京都、埼玉などの知事選、川崎、立川、鎌倉などの市長選で革新首長が次々と登場することになったことは前回述べたとおりです。
 地方選では71年4月に2300名、72年5月には、2500名の自治体議員を獲得、また71年6月の参院選では6名当選、72年12月の衆院選では実に40名(革新共同候補を含む)当選という、驚くべき膨張ぶりを見せます。沖縄では、“全面返還”を呼称して吸収した勢力で、72年5月の「日共沖縄県委員会準備会」を発足させ、まさに日本の隅々に着々と革命のくさびを打ちこんでいったのです。
 71年12月の六中総(第六回中央委員会総会)では、日本共産党の50年史を回顧しながら“日本の条件のもとでのレーニン型の党”という方向づけを行い、「マルクス=レーニン主義の共産党」の看板をもう一度確認することも忘れませんでした。
 こうして72年7月15日には東京・日比谷公会堂で、党員約30万、『赤旗』日刊紙約50万、日曜版約190万と高らかに銘うって党創立五十周年の記念大会を開催したのです。
 同大会で宮本委員長は「半世紀の試練をへた日本共産党と当面する諸問題」と題して記念講演し、その中で「いまやわが党は、単に半世紀の歴史を誇るだけでなく、日本の現実政治に積極的な影響を与えつつある積極的創造者となっている」と宮本路線への自信を披瀝しました。
 このように宮本共産党は70年代前半に最高潮に達し、民主連合政府の樹立が夢物語ではなくなってきたのです。