実録・日本共産党

文字サイズ

―その恐るべき素顔と歴史を探る―
思想新聞より

実録・日共産党

24
戦後編12
六全協で路線転換
宮本顕治が頭角現す

 共産党が内ゲバを繰り広げている間に日本は大きく変化しました。サンフランシスコ講和条約を結び、連合軍の占領体制に別れを告げたのです。 1952(昭和27)年4月、日本は独立。その年秋に吉田首相は「抜き打ち解散」し、10月に独立後、初の総選挙が実施されました。日本共産党は独立とともにマッカーサー指令のレッド・パージが解除され、晴れて公然と選挙戦に臨むことができるようになったのです。
 にもかかわらず、前年の末から同年夏にかけて火炎ビン党争や山村工作隊で猛威をふるった共産党に対して、国民は完全に背を向けます。49年には300万票を集め35名の当選者を出したのが、一挙に89万票に落ち(得票率2.5%)、全員落選というまれに見る凋落となってはね返ってきました。
 翌53年春には吉田首相の「バカヤロー解散」で4月に再び総選挙が行われましたが、一人の当選者(川上貴一)こそ出したものの、得票数はさらに落ち込んで65万票(得票率1.9%)。共産党の支持は完全に地に落ち風前の灯火となったのです。
 こうした中、同年3月に共産主義の巨星スターリンが死に、7月には朝鮮動乱に終止符が打たれます。動乱を内乱に導き共産革命を成功させるとの火炎ビン党争の口実は全くなくなってしまったのです。10月には徳田球一が北京で死去。さらに火炎ビン闘争の総指揮者であった志田重男も「公金大量消費」が発覚して失踪、共産党は事実上、解体状況に陥ります。
 そこで主流・国際の両派は、ソ連からの勧告もあって、54年頃から歩み寄りを始め、55年1月1日の『アカハタ』に「党の統一とすべての民主勢力と団結」という論文を発表、これまでの「極左冒険主義」に対する自己批判と党組織の再統一の方向を打ち出すようになりました。
 和解後はじめての2月の総選挙には、得票数73万票(得票率2%)だったものの、2名が当選。3月には中央指導部の改編が行われ、議長に春日正一、指導部に志賀義雄、宮本顕治、米原昶(いたる)らが顔を整え、共産党は実に4年ぶりに再統一されました。
 以後、党の姿勢は急速に平和路線へと切り替わり、6月28日には軍事組織を解体。そうして7月27日から3日間、代々木の党本部で第六回全国協議会(六全協)が開催されることになります。六全協こそ共産党の転換点と位置づけられる重要な会合です。
 六全協で共産党は基本路線を「党は、マルクス・レーニン主義の理論を日本の歴史と現実に適用し、日本革命運動の実践に結びつけ、日本革命の理論を創造的に発展させる。党は教条主義と経験主義に反対する」と改めました。
 これは一見なんの変哲もなさそうな表現ですが、実は共産党にとってはコペルニクス的転回ともいうべき路線転換を示しています。その第一は、これまでの軍事路線を清算して「日本の歴史と現実」に適合する議会主義的な平和革命路線に引きもどそうとするものです。
 これは柴田翔の『されどわれらが日々』にあるように、全生命をあげて山村工作隊のために捧げ、そこに骨を埋めようとまで思いつめた青年・学生層に深刻なショックを引き起こします。後にそのしこりが学生党員らの共産党本部への殴りこみ、反日共系全学連の発生にまで発展していきます。
 第二は、「日本の歴史と現実」に合わせたマルクス・レーニン主義の適用、すなわちコミンテルンなど国際共産主義に一方的に引きずりまわされない自主独立路線の確立ということを意味しています。これはその後、反ソ、反中と右往左往の後、64(昭和41)年になってようやく自主独立路線へと一応の落着を見ます。
 また六全協では、今まで極秘にされていた徳田書記長の北京での死去が公表され、同時に、かつて徳田が個人的な感情で伊藤律などの側近派ばかりを偏重し、同志達を広く公平に登用しなかった「家父長的な個人中心指導の誤り」が批判されました。
 またセクト主義の誤り、統一戦線の観点や規約、規律の厳守、集団指導の重要性などが強調され、もはや個人の勘や義理人情に頼っていた徳田時代は去り、組織政党への脱皮を促します。こうして宮本顕治がのし上がってきます。