実録・日本共産党

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―その恐るべき素顔と歴史を探る―
思想新聞より

実録・日共産党

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戦後編7
「五一年綱領」を採択軍事路線を決める

 日本共産党は1951(昭和26)年10月16、17日の両日、第五回全国協議会(五全協)を開催し、「日本共産党の当面の要求」(通称・五一年綱領)を採択します。これはスターリンと中国共産党との合作と言われるものです。さらに五全協では新指導部を選出しました。

朝鮮戦争に呼応し暴力行使
 これから53年にかけて、共産党による武装闘争が全国各地で展開され、殺人、強盗、襲撃事件が頻発するようになるのです。共産党の武装闘争はその後の極左過激派による武装闘争の原点となったもので、数々の手本を残すようになります。
 その「五一年綱領」とはどのような内容なのでしょうか。
 「終戦後、日本はアメリカ帝国主義者の隷属のもとにおかれて、自由と独立を失ない、基本的な人権をも失なった。また彼等は日本の全産業を管理し、極度の搾取を行い、農民や労働者は失業と貧困と重税にあえいでいる。その上、彼等は日本を新しい侵略戦争に引きいれようと努力している。なぜなら、彼等の主な目的はアジアを支配することにあるが、そのためには日本のように、幹部級軍人、発展した産業、および兵士をつのるに足るだけの十分な人口をもつ国を基地にする必要があるからだ」
 このような認識のもとで「五一年綱領」はさらに次のように主張します。
「このような侵略戦争の道が結局、敗北と破滅につながるものであることは前の戦争で試験ずみである。ゆえに日本はこのような戦争の道ではなく、中国とソ連邦をはじめとする平和友好諸国との平和と協力の道を選ばなければならない」
 話があべこべです。戦争を引き起こした張本人は国際共産主義(ソ中朝)ですし、アジアへの侵略を企てているのも彼らです。ソ連と共産中国を“祖国”としない限り、こんな考えは生まれてこないでしょう。
 また「五一年綱領」は次のように言います。
「アメリカはその圧制的な略奪的な本質を隠すための衝立(ついたて)として吉田政府を利用している。吉田政府と国会は選挙されたものであり、国民の意志を代表するかのようなみせかけを持っているから、彼等はそのみせかけを利用して、みずからの命令をあたかも日本国民の同意と承認のもとに実行されるかのように装いつつ、それを遂行していくのである。もし日本の権力を握るものが、そのような衝立となることを欲しない民族解放民主政府であったなら、彼等もそう勝手なことはできず、日本駐屯の期間を短縮せざるをえないだろう。それゆえ、占領制度から日本を解放するためには、何よりもまず、その精神的、政治的支柱である吉田政府を倒し、新しい民族解放民主政府を樹立しなければならない」

写真=「51年綱領」に基づく一連の軍事方針が偽装機関誌などに掲載された(警察庁警備局・編『戦後主要左翼事件回想』より

信じがたい地獄絵図が全国で展開
 では民族解放民主政府はどのように樹立されるのでしょうか。「五一年綱領」はこう結論づけます。
「この新しい民族解放民主制府が、妨害なしに、平和的な方法で、自然に生まれると考えるのは根本的な誤りである。そのためには、日本人口の圧倒的多数を占める労働者と農民とが同盟して、真剣な革命的闘争を組織しなければならない。日本共産党は、このような、戦線の強化と発展を緊急な任務とする」

 武装闘争、軍事路線が必要不可欠だと日本共産党は主張するのです。これが「五一年綱領」の最大の特徴です。朝鮮戦争の後方基地になっている日本で暴力革命、ゲリラ戦を起こし、朝鮮半島のみならず一挙に日本列島をも共産化してしまおうというのが、彼らの魂胆だったのです。
 五全協で軍事方針が決定されて以来、日本共産党はにわかにそのどう猛な本性を露わにしました。共産主義理念によって、革命の大義のためには何をしても許される、絶対権力を握れる、と盲信したとき、共産主義者はたちどころに残虐非道な存在と一変するのです。
 信じがたいような地獄図がこれ以降、53年の朝鮮戦争の休戦、つまりスターリンの死まで一年余にわたって続くことになります。全国各地で軍事路線が展開され、それは一般的には火炎ビン闘争の名で知られるようになりますが、数多くの犠牲者を出すに至ります。