実録・日本共産党

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―その恐るべき素顔と歴史を探る―
思想新聞より

実録・日共産党

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「革命の砦」革新自治体
監視で党勢拡大へ

 70年代前半は「革新自治体の時代」と呼ばれました。たしかに東京、大阪、京都をはじめとした環大平洋の主要自治体が軒並み革新自治体となり、同自治体下の国民が3千万人以上にものぼったのです。
 共産党は革新自治体づくりに今も熱心で「真の住民本位」の自治体をつくると言います。しかし、その実態は「革命の砦」づくりにほかなりません。むろん、革新知事や市長は必ずしも共産党員ではなく学者らが担がれたケースも少なくありません。それでも彼らは「革命の砦」づくりに奔走させられることになるのです。
 その典型例が7期28年(1950~78年)の長期にわたった蜷川虎三京都府政です。蜷川知事は非党員の学者ですが、いつの間にか「共産党を骨まで愛する」という共産知事に変貌させられました。どうしてそうなったのでしょうか。
 共産党の安藤一茂元自治体部長は次のように述べています。
 「この革新首長が敵に屈服せず、公約をふみにずらず、住民と民主勢力(=共産勢力)から遊離(させないためには)常に民主勢力と住民の監視をうけることでなければなりません。しかもこれに適切に批判と積極的な助言をおこないうることが組織的に保障される必要があります」(『前衛』66年12月号)
 組織的というのは、要するに共産党が監視するという意味で、そうして革新首長を思いどおりに動かすと述べているのです。学者知事でも「組織的監視」によって、だんだん赤く染まっていくことになります。これが共産党員首長ともなるともっと露骨です。
 1967(昭和42)年に日本で初めて共産党員市長が誕生した長野県の塩尻市では、市役所の近くに共産党員の“詰め所”がつくられ、共産党長野県委員会や代々木の党本部から派遣された幹部党員が常駐。これが共産党市政のコントロールセンターとなりました。また市役所には筋金入りに党員が”専門委員”として入り、実質上の助役になり、「共産党によるリモコン市政」が誕生しました。行政機関の上部に党組織が存在する仕組みはソ連や中国など共産国では常識ですが、それが日本でも例外でないことを革新市長は見せつけたのです。
 蜷川共産府政は行政を党勢拡大にフルに利用しました。共産党機関誌『議会と自治体』(70年11月臨時増刊)には簡易水道設置を利用した党勢拡大の実例として、こんな話が紹介されています。
 ――初めに共産党系の「新婦人」という組織の人々が簡易水道を無料でつくろうと運動を展開、一般住民を巻き込んでいきます。次に共産党が介入し「住民の要求を行政に大衆政治方式としてぶっつけていくかたわら、部落に『赤旗』を購読させ、主婦たちのために憲法の学習会を開かせ、党活動を拡大」(灘井五郎・元共産党府議)します。そして最後に蜷川知事が喜んで(共産党が組織した住民運動ということで)予備費からでも補助金を出します――
 一方、「反動勢力の方が逆に要求を組織して請願する動きが起これば、直ちに適切な対策をたて(妨害する)」(梅田勝・共産党衆議院議員『70年代の革新自治体』)というのです。
 また京都共産府政では「『赤旗』は庁内各部局の必読紙で、全員”学習”に余念がない。そんな中で共産党の批判なんか、おくびも出せたものではない」(本田靖春『京都で何がおこっているか』)。もし、『赤旗』もとらず、共産党のいうことを聞かない幹部がいたら、あとは”粛清”が待っています。共産党元府議団長はこう述べています。
 「ともすればこの幹部職員がなかなか(共産)知事のいうことを聞かんといことがあったのです。最初は…。これに対しては共産党が先頭に立って、住民の要求をひっさげてその部課長と団体交渉をやる、知事の方針とちがうじゃないかということで、徹底的にこれを追及していって悪い職員はやめさす方向へもってゆく…、(皆、いうことを聞くようになったのは)やっぱり5年まえぐらいです」(中内広『議会と自治体』前掲) こうして「革命の砦」革新自治体が全国に広がっていったのです。

(写真)
京都共産府政の”監視センター”でもあった府庁近くの共産党京都府委員会