実録・日本共産党

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―その恐るべき素顔と歴史を探る―
思想新聞より

実録・日共産党

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戦後編 40

非核都市宣言を推進
劣勢挽回を狙う

 ソ連KGBの対日工作責任者コワレンコは1984年1月に来日すると、米海軍艦船に装備することが決まった「トマホーク」を排除すべく広範な反核運動を促しました。すると共産党はさっそく「トマホーク来るな! 国民運動連絡センター」を発足させました。

宮本委員長がモスクワ詣で
 そして84年12月に宮本顕治委員長はまたも“モスクワ詣で”を行います。79年末の訪ソでソ連共産党と関係正常化した共産党ですが、その直後にソ連がアフガニスタンを侵略。共産党は表面上はソ連批判を行わざるを得ない立場に立たされました。その後、ブレジネフ書記長が死去し新たにチェルネンコ書記長が登場したことで宮本委員長は再び日ソ共産党会議を開いて歩調をそろえようとしたのです。
 チェルネンコ――宮本会談では、被爆40周年の85年を「核廃絶への決定的転換の年」にし「8月6日を国際的な共同行動デーにする」ことに合意します。宮本委員長は日本を射程に入れる極東ソ連軍のSS20の撤廃を申し入れず、ただ核廃絶を唱えるのですから、よほどのお人好しか、それともソ連の手先かのどちらかでしょう。むろん宮本委員長はお人好しではありません。
 共産党の考え方は次の『赤旗』記事から一目瞭然でしょう。
「核兵器禁止はどうすれば実現できるか。軍事同盟の解消と、軍縮を要求する大衆的な運動の圧力で勝ちとることができるでしょう。しかしもっと核兵器のない世界を保障できるものは、全世界における社会主義革命の勝利による帝国主義の一掃でしょう」(79年4月22日付)
 共産革命によって帝国主義(西側自由諸国)を打倒すれば核兵器がなくなるといっているのですから、いかに共産党がソ連の手先であるかが知れます。
 さて、共産党の反核運動は、その柱に地方自治体における「非核都市宣言」運動を据えました。
 日本は「非核三原則」を掲げる「非核国」ですが、これを盾に各自治体に「非核都市宣言」をさせようというものです。
 日本は米国の「核の傘」のもとにいるので、非核都市宣言を厳密に実行しようとすれば、イコール米軍の核排除となります。米軍基地のある自治体では「核が持ち込まれている疑念」を理由に反米運動に火をつけることができます。また自衛隊はそうした米軍と協力しているとして反自衛隊運動にも転化できます。そこが共産党(ソ連も)の狙いです。
 非核都市宣言は「われわれは、いかなる国であれ、いかなる理由であり、核兵器の製造、配備、持ち込みを認めない。持てる国は、即時に核兵器を捨てよ」(東京都品川区の宣言)といったものを議会で採択させ、次にこれを住民に徹底させるとして宣言の看板設置や広報ビラの配布などを行政に促します。
 たとえば非核都市宣言を行った川崎市では、85年度の予算に“平和予算”として1932万円が計上され、非核市民の集い(305万円)、非核パネル配布(45万円)、非核宣言各種印刷物(300万円)のほか、反核平和団体への補助金(300万円)まで盛り込まれています。
 この補助金をもらった団体のほとんどは「トマホークはいらない! 母と子の横須賀行動実行委員会」や「核兵器廃絶軍縮を進める川崎市各区区民の会連絡会」など明らかに共産党系団体です。市民の税金を使って反米運動・党勢拡大ができるのですから、非核都市宣言は一石二鳥以上の効果があるというわけです。

保守勢力も巻込まれる
 しかも統一戦線づくりに効果的です。共産党は70年代の革新自治体ブームで「革命の砦」づくりに成功したものの、京都で敗北して以降、大きく後退。さらに80年代初めにはソ連のアフガン侵略などを通じて社会党が共産排除を行い、孤立化が進みました。非核都市宣言は社会党と共闘できるばかりか、非核が国策と主張して保守勢力まで巻き込めます。宣言は劣勢を取り戻す絶好の材料だったのです。
 85年夏までに512自治体で非核都市宣言が行われました。その中には保守勢力が強い自治体も含まれていました。