実録・日本共産党

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―その恐るべき素顔と歴史を探る―
思想新聞より

実録・日共産党

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戦後編・50

政治不信の受け皿に
史上最高の840万票獲得

 政治腐敗の自民党批判を引っさげて94(平成6)年8月に登場した細川連立政権は翌年6月には脆くも崩壊、次いで登場したのが「五五年体制」で厳しく対峙してきた自民党と社会党を軸にする自社さ連立政権だったことから、国民の政治不信は絶頂に達します。ここに共産党は活路を見いだすことになります。

ラジカル批判票が共産党に流入
 80年代末からの政治不信がどのように推移してきたかを見ておきましょう。
 自民党の一党優位政治と呼ばれる戦後の自民党単独長期政権は、ほぼ10年ごとに疑獄を招き、その度に政治改革が叫ばれますが、一向に成果をあげません。
 こうした閉塞感の打破を願う有権者は、89年の参院選では「マドンナ旋風」を起こしました。これは女性による政治変革に期待を込めたわけですが、社会党の土井たか子委員長を筆頭とする社会党の「マドンナ」は「ダメなものはダメ」との反対論は展開できても、新しい時代の羅針盤を示すことができず、期待外れに終わりました。
 次に有権者が期待を掛けたのが、既存政党ではない新党で、93年には「新党ブーム」が起こります。同年7月の衆院選・東京都議選において細川氏の日本新党や羽田・小沢氏の新生党などが躍進し、非自民連立政権が登場しますが挫折。前述の自社さの村山連立政権に至ります。
 こうして既存政党にも新党にも期待を掛けない無党派状況が生まれることになります。それが95年春の統一地方選挙での「無党派旋風」です。東京都と大阪府の二大都市において政党の支持を受けない無党派候補(青島幸男氏と横山ノック氏)が当選し、また同年の参院選挙では史上最低の投票率(44・5%)で多くの有権者が棄権、比例選では自民党が創価学会の組織を総動員した新進党に敗れ、初めて第二党に転落しました。
 それ以降、国政・地方選挙とも低投票率が続き、96年の総選挙でも史上最低の低投票率(59・6%)となりました。
 つまり、政治不信は「マドンナ旋風」→「新党ブーム」→「無党派旋風」→「棄権・低投票率」というように流れてきたのです。ここに共産党が加わり「共産党支持」の流れが登場することになります。政党不信の流れが無党派層をして穏健な政治不信層とラジカルな政治不信層へと二分していくことになったからです。穏健な無党派層はどこの党に投票しても同じだとして棄権に回り(低投票率)、一方、「自民党にお灸を据える」とのラジカルな無党派層は「共産党支持」へとなだれ込んできたのです。
 こうして共産党はラジカルな政治不信票を取り込んで96年10月の総選挙では比例区で史上最大の726万票を獲得(93総選挙の1・5倍増=243万票増)、小選挙区でも京都3区・高知1区で初当選を果たし、合わせて26議席を得ました。
 無党派旋風は青島都政下の世界都市博をめぐる混乱などで象徴されるように無力さを見せつけ、それ以降、政治不信はいよいよ深刻化していくことになります。
 とりわけ都市部における政治不信は一層進み、その結果、97年7月の東京都議会選では投票率が40・8%という都道府県議会議員選挙史上、最低の投票率を記録しました。実に940万人の有権者のうち550万人が棄権したのです。その中で共産党は21・3%の得票率を獲得し、議席を倍増させて史上最大の26議席を得て、自民党に次いで第2党の座を確保したのでした。
 98年7月の参院選挙は「棄権」がある程度、解消されたといえます。投票率58・8%で前回比14%増、実に1400万人が棄権から投票に転じました。その内訳は「アンチ橋本首相・アンチ自民党」で集約されるといえます。棄権から投票に回った無党派の受け皿は民主党と共産党に二分化し、とりわけ共産党は史上最高の得票数・率・議席(840万票・14・6%・15議席)を得たのです。
 このように共産党は連立時代の政治不信票の受け皿になり「共産党躍進ブーム」を起こしたのです。