実録・日本共産党

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―その恐るべき素顔と歴史を探る―
思想新聞より

実録・日共産党

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戦後編35

ソ連従属に活路求める
15年ぶり関係を正常化

 革新自治体が次々に崩壊し民主連合政府樹立の展望を失った70年代末、共産党は活路をソ連に求めました。そのきっかけととなったのは78年夏に締結された日中平和友好条約です。日中条約によって共産党は二重の意味で“蘇生”することになります。

日中友好条約でソ連に方向転換
 第一は日本が中国共産党政権と平和友好条約を結ぶことで国内に共産主義に対する警戒感が急速に薄れたことです。その結果、79(昭和54)年10月の総選挙で共産党は19議席から41議席に倍増、党史上最大の議席を獲得しました。ただし、これは投票日に台風が日本列島を直撃、戦後二番目の低投票率になり公明党と共産党の組織政党に有利に働いたことが背景にあります。共産党の得票率は横ばいの10.4%。それでも70年代末の低落傾向に歯止めをかけたことは間違いないでしょう。
 第二は、日中条約に危機感を抱いたソ連が日本共産党に急接近、国際的共産主義戦線で孤立化していた共産党は渡りに船とばかりにソ連共産党と関係正常化を図ったことです。
 なぜソ連は共産党に接近したのでしょうか。それは日中条約をソ連包囲網ととらえたこととアジアから米軍を追い払う一翼に共産党を組み込もうと考えたからです。
 ソ連は日中条約締結後、包囲網を打破するために動き出し、78年12月にはベトナムのカンボジア侵攻を支援します。ベトナムはカムラン湾にソ連海軍基地を設置するなどソ連路線を強め、ソ連の支援を得てベトナム中心のインドシナ支配を画策していたのです。そのためには毛沢東主義のカンボジアのポルポト政権を打倒しなければなりません。
 そこで傀儡のヘン・サムリン政権を樹立します。同政権は2万人の軍隊を擁してポルポト政権を攻撃していましたが、ここに18万人のベトナム軍と8千人のソ連軍事顧問団が加わって一挙にポルポト政権をプノンペンから追い出してしまったのです。まさにその時(78年12月)、ソ連はアフガニスタンと善隣協力条約を締結し、中国包囲網をさらに拡大していったのです。
 これを中国はソ連による中国包囲網ととらえ、79年2月にはベトナムに侵攻し中越戦争が勃発しました。このように中ソの覇権争いがアジアで熾烈に展開していたのです。はたして時の日本政府(福田政権)はアジア情勢を知ったうえで日中条約を結んだのでしょうか。疑問が残るところです。
 こうして79年春、ソ連は日中にくさびを打ち込み、同時に日米も離間させ在日米軍を追いだして世界共産化への駒を進めようと、日本共産党との関係正常化に動いたのです。
 日ソ共産党は64(昭和39)年の部分核停条約の批准をめぐって決裂、ソ連を支持した志賀義雄ら親ソ派を除名したことで敵対関係に陥っていました。ソ連は以降、志賀派を支援し、これを共産党は日本の党への干渉として非難。日ソ両共産党は犬猿の仲になっていました。
 しかし、国内で日本革命の展望の開けない共産党と前述の思惑を持つソ連共産党は利害が一致し、急速に接近しはじめます。79年4月には関係正常化文書に合意、そして宮本委員長は同年12月17日から24日まで1週間以上もの時間を割いてモスクワを訪問し日ソ両共産党の公式会談をもちます。こうして24日に正式に関係正常化を行い、日ソ共産党共同声明を発表します。
 同声明は「最近のアジア情勢を含む当面の国際問題、両国と両国人民間の関係の諸問題、国際共産主義運動の諸問題│など相互に関心のある諸問題について広範で多面的な意見の交換を行った」とし、「双方はベトナム、ラオス、カンボジア三国人民が新しい困難や問題に直面しながら、新しい社会を建設していることに熱烈な連帯を表明」し、さらに「侵略的日米軍事同盟および日本軍国主義の復活・強化に対する支持は、だれによって行われるものであろうと帝国主義と反動勢力の策動に力を貸すもの」として反米闘争の共闘を高らかにうたいました。
 こうして日本共産党はソ連の第五列へと転じていきました。