実録・日本共産党

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―その恐るべき素顔と歴史を探る―
思想新聞より

実録・日共産党

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日韓条約の粉砕めざす
中共、北朝鮮に呼応
ソ連派一掃して選挙闘争に専念

 志賀義雄がソ連に同調して衆院本会議で部分核停条約の批准に賛成したのに続いて、参院では鈴木市蔵が賛成票を投じ、公然と共産党中央に反旗を翻しました。
 この報に接して中国滞在中だった宮本顕治書記長は急きょ帰国、64(昭和39)年5月に第8回中央委員会総会を開き、この2人を即刻除名。さらに9月にはソ連派の神山茂夫、中野重治も除名し、ソ連派を党内から一掃しました。
 そして同年11月に第9回党大会を開催し、いよいよもって中国共産党(中共)寄り路線を強めていくことになります。九党大会決議は党綱領(すなわち宮本路線)の正しさを確認したとして、次のように主張しました。
 「アメリカ帝国主義の対日支配のもとに、日本の軍国主義・帝国主義の復活がはかられ、日本はアメリカのアジア侵略の前線基地に仕立て上げられている。アメリカは部分核停条約を『平和』の煙幕として利用しつつアジアの侵略を強め、1964年(昭和39年)8月にはベトナム民主共和国に対して公然と軍事侵略を開始した。これはアメリカ帝国主義と部分核停条約を美化してきた内外の修正主義者達の主張に致命的な打撃を与えるものである」
 これは当時の中共の主張とうり二つです。決議はそのうえで、議会と選挙闘争に当面、最も力を入れることを決めました。さらに「国際共産主義内部の矛盾克服」を掲げ、現代修正主義(つまりソ連)が国際共産主義の発展を妨げるガンであるとし、国際共産主義運動の真の統一と団結をかちとるために「マルクス・レーニン主義とプロレタリア国際主義にもとづく自主独立の立場を堅持」「現代修正主義と教条主義・セクト主義に対する二つの戦線での闘争を徹底的におしすすめる」などを決議しました。
 自主独立などと唱っていますが、この時点では共産党は中共ときわめて近い関係にありました。この九党大会までに党員数は約15万人、アカハタ本紙19万部、日曜版62万部。党勢は順調に拡大し、一定の基盤を作ってきたのです。
 こうして迎えた1965年、共産党は反共および「左」右の日和見主義克服のための学習と選挙闘争とに全力を注ぎ、おびただしい宣伝・学習書を出版。7月の参院選には全国区で2人当選(得票数165万)、地方区では野坂が東京で最高点を取って1人当選(全国の地方区得票数260万)。7月の東京都議会選挙では自民党が汚職事件で社会党に第一党を奪われる惨敗をきし、その時運に乗って共産党は都議を2名から一挙9名にまで増やしたのです。
 これと並行して日韓条約・ベトナム問題などをめぐって、九党大会決議の「反帝反独占統一戦線」結成へ向けての運動も精力的にし押進めてきます。その狙いは日韓国交阻止です。
 朝鮮動乱が勃発した日の6月25日には、社会党・総評などと組んで「日韓会談」粉砕の中央代表集会(いわゆる一日共闘)が行なわれ、9月の第3回中央委員会総会では「日韓会談」批准阻止声明、11月には日韓条約粉砕国民統一行動中央集会と請願デモなどを繰り広げます。
 日韓会談は佐藤内閣の発足後の64年12月に第7次会談が行われ、65年2月に椎名外相が訪韓し、朴正熙大統領と会談して日韓条約に仮調印。そして6月に東京で正式に日韓条約が調印されました。
 これに対して北朝鮮は「日本帝国主義者の南朝鮮侵略を保障するものだ」と非難し、ソウルでは学生運動が過激化し機動隊が出動する騒ぎになりました。共産党は北朝鮮と中国の日韓条約攻撃に呼応して、徹底的な粉砕闘争を試みたのです。
 同条約には共産党と社会党が反対し、民社党と公明党は基本的には賛成しながらも条約の中身に疑問を呈して反対。結局、11月12日に自民党単独の強行採択で日韓条約は批准されました。
 日本共産党は国際共産主義の走狗となって日韓国交に反対したのですが、国民は日韓国交を大歓迎しました。その共産党は今では素知らぬ顔でソウルに赤旗特派員を派遣しています。