実録・日本共産党

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―その恐るべき素顔と歴史を探る―
思想新聞より

実録・日共産党

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「戦争を内乱に転化せよ」32年テーゼで武装

 1929(昭和4)年の検挙によって日本共産党の指導部はほとんど崩壊し、党の指導権は青年達の手に移りました。彼等も躍起になって党の再建に努め、中央ビューローを確立、また『赤旗』も復刊。翌三〇年には、田中清玄、佐野博らが指導部の中心となると、武装闘争・赤色テロを公然と標榜するようになりました。

「極左冒険主義」で大衆から孤立
 たとえば同年おこった東京市電争議では「武装自衛隊を組織して、スキャップ(スト破り)どもに徹底的に赤色テロを加えると同時に電力の輸送路を破壊し、電車、自動車の運転機械をぶちこわせ」との破壊的指令を発しています。
 さらに川崎では、日本石油の党細胞が中心となり、ピストル、短刀、竹槍などで武装し、東京までデモを続け、宮城を乗っ取ろうと計画、止めにはいった一般労働者と大乱闘になりました(武装メーデー事件)。
 こうした武装メーデーなどの「極左冒険主義」によって、共産党は同党の影響下のもとに組織した全協からも浮きあがり、さらにその全協までが一般の労働大衆から浮きあがって孤立するという重大な危機を迎えるようになりました。
 この危機打開にあたったのが、31(昭和6)年1月、モスクワ帰りの風間丈吉や四・一六事件の保釈で出てきた岩田義道、紺野与次郎らで、彼等は冒険主義を清算し、再びもとの平和的大衆路線に引きもどした。その結果、全協も組合員数が1万人位まで回復しました。
 このように共産党が過激、穏健の左右に揺れ動いている中で、同年9月18日、、満州事変が勃発。コミンテルンは、満州事変によって、日本の中国への進出の意図が明らかとなったとして、これを阻止するために急きょ、日本共産党をその後方撹乱の任に当てようと考えます。
 そこでコミンテルンの極東部長クーシネンらは、モスクワにいた片山潜、野坂参三、山本懸蔵(昭和三年モスクワ派遣)などとともに、「日本における情勢と日本共産党の任務に関するテーゼ」、通称「三二年テーゼ」を起草します。
「三二年テーゼ」は、「帝国主義戦争を内乱に転化し、ブルジョア=地主的天皇制の革命的転覆を招来する」ことをもって日本共産党の任務と規定した、激烈きわまりない内容です。

天皇制粉砕が「革命」の主要な任務
「三二年テーゼ」はまず満州事変について「日本帝国主義の略奪戦争であるとともに、帝国主義列強の対ソ統一戦線の強化をもくろむものであり、また日本国内の経済的諸矛盾(市場の狭さなど)をこの対外進出によって解決せんとするものである」と規定します。
 そのうえで「ゆえに日本のプロレタリアートと共産党は、身近かな経済闘争・政治闘争と結びつけて反戦闘争を強化し、帝国主義戦争を内乱に転化し、それによってブルジョア=地主的天皇制を革命的に転覆させなければならない」と、共産党の任務を明らかにします。
 さらに同テーゼは「この当面する日本革命の本質と任務をよく理解するためには、封建制の異常に強力な諸要素と独占資本主義の著しく進んだ発展との結合という支配的な特質を十分に考えなければならない」とし、天皇制を粉砕することが日本革命の第一の主要なる任務であると強調しています。
 大衆闘争については「大衆の注意を『議会主義的幻想』を培うような方向に向けてはならず、あくまでも議会外の闘争に主眼を置き、革命的情勢が熟した時は、労働者農民兵士ソビエトを樹立し、ブルジョア=地主的独裁の国家機構を完全に粉砕すべく闘争しなければならない」としています。
 戦後、共産党は50(昭和25)年に朝鮮動乱が勃発すると、翌51年には「32年テーゼ」とウリ二つの「51年テーゼ」を採択、やはり戦争の内乱化をめざした武装闘争を展開します。 2度にわたって武装闘争の「前科」をもつ日本共産党。その第一歩が「三二年テーゼ」だったわけです。