実録・日本共産党

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―その恐るべき素顔と歴史を探る―
思想新聞より

実録・日共産党

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中ソ対立で中国寄りに
部分核停条約に反対

 宮本顕治書記長が党内主導権を確立した頃、国際共産主義は中ソ対立という新たなうねりの中にありました。
 中ソの対立は、1959(昭和34)年、ソ連が中国への原爆製造技術の提供を拒んだ頃から芽生え始めていましたが、61年10月のソ連共産党第22回大会で、東欧ブロックから離反して中共(中国共産党)寄りの姿勢を見せはじめていたアルバニアを、フルシチョフがスターリン主義だと非難。これに周恩来が公然と反論を加えたことから一気に激化しました。
 ソ連が中国に滞在していた数千人の技術者の一斉引き上げを命じたため、黄河の大建設工事をはじめ数百カ所に及ぶ建設が全部中止の止むなきに至りました。
 こうして中ソ論争が激化すると、各国の共産党は中ソいずれを支持するか態度を明確化するよう迫られます。62年末になると、アルバニアを除く東欧5カ国とイタリアの共産党がソ連支持の立場を明らかにし、中共批判を始めました。
 日本共産党は判断に苦しんで、しばらく沈黙を続けてきたが、党内の中共派から強いつきあげがあり、ついに63年2月の第5回中央委員会総会でこの問題を討議することになります。ソ連支持・中共支持・不介入、三様の意見が出て、結局、宮本書記長の妥協案で「中共寄り中立」という微妙な線で意見がまとまりました。
 その後、同年7月14日、ソ連がモスクワで米英とともに部分的核停条約に調印したという報が伝わるや、中共は俄然、色めき立ちました。この条約は明らかに三大国が核を独占し、中共の核開発の阻止を意図したものと見られたからです。「アメリカ帝国主義への降伏」という最大級の侮言をもって中共はソ連を罵倒しました。
 このトラブルが日本国内に持込まれたのは63年8月、広島で行なわれた第9回原水禁世界大会の席上です。部分核停条約の是非をめぐって、社会党・総評系は、「いかなる国の核実験にも反対する」という立場でこれに賛成。共産党は「中共寄り中立」の建前からこれに反対の意向を強めていました。
 この大会こそ絶好の国際宣伝の場とばかりにソ連はジューコフ、中共は朱子奇という、それぞれ大物の代表団を派遣。朱子奇は席上でジューコフに扇子を叩きつけるなど大変な対決の場となりました。共産党代表団の袴田里見らは、すっかり中共のペースにまき込まれ、中立からにわかに中共寄りに傾いていきました。原水禁は63年12月から社会党系と共産党系とにまっ二つに割れていきました。
 宮本書記長は、党内でソ連の大国主義的横暴を曝露するなど、党を反ソ的方向にリードしようとします。このことを嗅ぎつけたソ連は64年1月、書記局のオルグ3名を日本に送り、内部からの切り崩しを策しました。そのやり方が露骨だったところから共産党は2月、袴田ら代表団を送ってソ連に談判に行くましたが、結局けんか別れに終りました。
 代表団はその帰路、3月に北京に着くと、ここでは数千名の中共党員たちが「反修闘争の英雄」とばかり大歓迎。こんなことで共産党の中共寄り路線は次第に決定的なものとなっていったのです。
 一方、ソ連は駐日大使館と志賀義雄らを通じて執拗に続けます。64年春、故大山郁夫の大山柳子夫人はソ連の招待を受けてモスクワの世界婦人大会に出席。このとき、特別招待という名目で志賀夫人も訪ソ。この夫人らを通じて、着々と切り崩しを進めます。
 64年5月、ソ連からミコヤン第一副首相ら代表団が訪日。ミコヤンが傍聴席で見守る中で、衆議院本会議に部分核停条約の批准案件が上程されると、志賀義雄は5人の共産党議員のうちただ1人、賛成の白票を投じました。志賀は直ちに院内の社会党控室に駈けこみ、そこを借用して記者会見を行ない、「部分核停条約に賛成する」との声明を発表しました。