実録・日本共産党

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―その恐るべき素顔と歴史を探る―
思想新聞より

実録・日共産党

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戦後編31

創価学会とり込み失敗
「創共協定」すぐに破綻

 1973(昭和48)年のオイルショックによって経済高度成長は破綻、狂乱物価が襲い、自民党政治への批判が急速に高まります。74年7月の参院選挙では自民党は改選議席の過半数をとれず、無所属議員を入党させてかろうじて保革逆転を防いだものの、『文藝春秋』(11月号)が立花隆氏の「田中角栄研究」を掲載、田中首相の巧妙な政治資金調達の実態を白日の下にさらし、11月に田中首相は退陣。三木内閣が成立しました。
 こうした政治情勢を背景に74年12月、共産党と公明党の母体である創価学会との間に「創共協定」が結ばれました。
 共産党としては社公民路線の公明党を切り崩し、革新統一戦線に同党を引きずり込み、自民党政権に替わる民主連合政府の立場を強めたいとの思惑から創価学会と「協定」を結んだのです。一方、創価学会は民主連合政府ができても宗教活動が自由にできる“保険”のために共産党と協定を結んだといわれます。
 いずれにしても「創共協定」は他の宗教団体や政党に大変な衝撃を与えました。「創共協定」が結ばれたことが明らかにされたのは翌75年7月のこと。毎日新聞社主催の「人生対談」が7月12日、東京のホテル・ニューオオタニで宮本顕治共産党委員長と池田大作創価学会会長との間で行われ、13日付の「赤旗」と「聖教新聞」がこれを伝えたからです(対談内容は毎日新聞15日朝刊に掲載)。
 これまで共産党と創価学会は犬猿の仲でした。なにせ共産主義政党と宗教団体です。70年の創価学会言論弾圧問題では共産党が反創価学会キャンペーンを張り、下町を中心に共産党と公明党の激しい支持者獲得争いが続いてきたからです。
 7月末になると一部新聞が共産党と創価学会との間で「歴史的和解」の協定文書が交わされていると報道されるに及んで、共産党と創価学会ははじめて「創共協定」を明らかにしました(7月28日付「赤旗」「聖教新聞」)。
 それによると両者を取りもったのは、作家の松本清張氏で74年10月、同氏の立ち会いのもとで共産党側から上田耕一郎・党任幹部会委員、創価学会側から野崎勲総務・男子部長らが松本氏宅で会談。5回の会談を経て同12月28日、「日本共産党と創価学会との合意についての協定」が締結され、翌29日には松本氏宅で宮本委員長と池田会長が懇談しました。協定の内容(要旨)は次のようなものです。
 【1】共産党と創価学会は相互の自主性を尊重し両組織間の相互理解に最善の努力をする。
 【2】創価学会は共産主義を敵視する態度をとらない。共産党は布教の自由・信教の自由を無条件で擁護する。
 【3】双方は信義を守り今後、一切の双方間の誹謗中傷は行わない。話し合いを尊重し、両組織間、運動間のすべての問題は協議によって解決する。
 【4】双方は民衆の側に立つ姿勢を堅持し、それぞれの信条と方法で社会的不公平をとりのぞき、民衆の福祉の向上を実現するために努力しあう。
 【5】双方は世界恒久平和の目標に向かって互いの信条と方法で最善の努力を傾ける。核兵器全廃の共通課題に対して互いの立場で協調しあう。
 【6】日本に新しいファシズムを目指す潮流が存在しているとの共通の認識に立ち英知を発揮し未然に防ぐ努力を互いの立場で行う。政治的自由、信教の自由をおかすファシズムの攻撃に対しては断固反対し相互に守りあう。
 【7】この協定は向こう10年を期間とする。10年後は協議する。

「共同闘争」と共産は宣伝攻勢
 この協定が発表されるや共産党はこれをあたかも「共同闘争」のように扱い宣伝攻勢を掛けました。これには竹入公明党委員長ら党側が猛反発し、野崎総務は「共存の可能性を探ったものにすぎず組織的共闘は約束していない」と言明。これに共産党が反発し、協定はすぐに形骸化します。 76年8月に宮本委員長が池田会長に協定順守の会見を申し込みますが、学会側はこれを拒否。「10年協定」は1年後には崩壊し、共産党の創価学会・公明党取り込み工作は失敗しました。
 
●写真=創価学会との協定を結んだ宮本顕治委員長(右)と上田耕一郎・常任幹部会委員(左)であったが…