実録・日本共産党

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―その恐るべき素顔と歴史を探る―
思想新聞より

実録・日共産党

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戦前編 3
第一目標は天皇制廃止ブハーリン綱領で確認

 日本共産党は「コミンテルン(国際共産党)日本支部」として創設されたがゆえに、以後、常にコミンテルンの思惑のなかで動かされていきます。国際共産党と言ってもそれは名ばかりで、中身はソ連共産党であったから、共産党はソ連の第五列だったと言っても過言ではないでしょう。
 創立の翌1923(大正12)年3月、東京・石神井で臨時党大会が開かれ、ソ連共産党最高幹部のブハーリンが作った綱領草案(通称ブハーリン・テーゼ)が議題にのぼります。そこには社会主義革命の前段階として、まず天皇制廃止を含む民主主義革命の必要性が謳われていました。
 ソ連が日本革命を目指すに当たって、まずもって「天皇制廃止」をあげていることに注目しておかねなりません。共産党が一貫して天皇制廃止と主張してきたこと理由はそこにあるからです。
 しかし、この綱領を公然と掲げるのは自殺行為に等しいという意見が強く、コミンテルンにはブハーリン草案をそのまま採択したように報告。実際には、このことは各自の心の中に秘しておくだけで、秘密文書をも含め一切の文書からこの条項を除き、速記録も消却するという慎重な処置を取りました。幸徳秋水事件の二の舞を避ける措置とされています。
 ところで、こうして共産党が非公然活動を始めた1920年代の日本は大混乱期に入っていました。大戦下の景気の後に復興景気が続いたかと思うと、金融逼迫で戦後恐慌に陥り、これに関東大震災が拍車を掛け、日本経済は乱気流をさまよいます。
 そこで労働争議や小作争議が多発し、各地で労働運動が高揚します。しかし、これを指導すべき社会主義者はアナキズムからボリシェヴィキに至るまでバラバラでした。アナキズムは関東大震災で大杉栄が殺害されることによって衰退していきますが、共産党も派閥争いやイデオロギー対立に終始し、また23年6月、党大会に出席した党の主要メンバーのほとんど(渡辺政之輔、市川正一、徳田救一ら)が根こそぎ逮捕される第一次検挙もあって指導部はきわめて弱体化していました。
 政府は震災後の社会秩序を安定させるため、普通選挙法(25歳以上の男子選挙権)の導入や労働組合法の制定を目指すと、無産政党の結成運動が起こり、労働農民党が結成されます。同党はイデオロギー対立により右派の社会民衆党と中間派の日本労農党との三つに分かれていきました。
 社会主義者は、普通選挙の導入や労働組合の事実上の承認ということから、合法的な労働運動の発展に望みを託する社会民主主義的傾向を示す者が多くなり、暴力革命を金科玉条とする共産主義派が次第に孤立に追い込まれるようになってきたのです。
 発足.jpg (29705 バイト)むろん、政府は無産政党の活動を何でも容認していたのではなく、普通選挙法と同時に治安維持法を制定します(いずれも25年)。合法的な活動を認めるかわりに、そこから逸脱する部分は徹底的に取り締まろういうのがその狙いです。共産党が対象であることは言うまでもありません。
 共産党は党史のなかで治安維持法を最悪の治安法と位置づけ、同法で弾圧された共産党を英雄のように描きますが、そのような見方は必ずしも当たっていません。後に治安維持法は宗教団体の弾圧にも利用され、まぎれもなく悪法となっていきますが、当時は普通選挙の実施に備えて、暴力集団を封じ込めようとしたにすぎませんでした。
 考えても見てください。ロシアでは300年も続いたツァー(皇帝)が武力によって打倒され、さらにニコライ皇帝一家が老若男女を問わず、皆殺しにあっていました。日本共産党はそれを押し進めたソ連共産党の日本支部として作られ、しかもソ連共産党の最高幹部から下げ渡された綱領をいただいて天皇制打倒の暴力革命を企てようとしていたのです。
 普通選挙法の導入に当たって、外国製の暴力集団を排除しておこうという時の政府の考えは、さほど逸脱したものではないでしょう。

写真=ロシア革命を擁護した第3回メーデー(1922年)