実録・日本共産党

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―その恐るべき素顔と歴史を探る―
思想新聞より

実録・日共産党


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戦後編14
宮本書記長が誕生
北朝鮮・中国詣でに
7党大会で党内権力を実質掌握

 宮本顕治は徳田球一系の主流派を巧みに引きずり降ろし、さらに過激な学生指導者を党内から追い払い、ひたすら党内権力の掌握に向かっていきます。その第一歩となったのが第七回共産党大会です。
 七党大会は1958(昭和33)年7月、東京・中野公会堂で開催されました。この大会は12日にわたる異例に長いものとなりました。というのは、宮本派が一挙に宮本草案(党章草案と呼ばれた)を採択しようと目論んだからです。しかし、党内にはこれに疑問を抱く勢力が少なからずおり、採択に必要な代議員3分の2の賛成が得られませんでした。
 そこで宮本派は止むをえず当面の「行動綱領」だけを独立に切り離して党議にかけ、その承認をもって宮本体制を踏み出そうとします。その代り、役員選挙では宮本派が要所を抑えました。旧主流派は、中央委幹部会員として、わずかに野坂参三と春日正一を推せただけです。西沢隆二、紺野与次郎、竹中恒三郎、長谷川浩らは宮本派の代議員からの猛攻撃で幹部会員選挙に立候補すらできない有様でした。
 この党大会のポイントは書記長制が復活され、宮本がみずから書記長の座についたことです。野坂は、中央委員会幹部会議長という新しく作られた名誉職に党の象徴的存在として祭りあげられました。ここにに宮本独裁体制がスタートを切ったといえます。
 宮本書記長は独裁体制を築くや直ちに北朝鮮と中国詣でに出かけます。59(昭和34)年2月、金日成の朝鮮労働党代表団とともに共同コミュニケに調印、3月には中国で毛沢東の中国共産党代表団との共同声明を採択、反米の国際戦線の一翼を担うことを誓い、過激な60年安保闘争に走り出します。
 こうした背景のもとで3月28日、社会党・総評などと手を組んで、安保改定阻止国民会議を結成し、岸信介政権を窮地に陥れようと策動を強めました。

春日一派らを一掃し旗幟鮮明に
 一方、共産党から除名された元学生党員たちは共産主義者同盟(共産同)に率いられ全学連主流派を形成。「一つの敵(日本独占資本)」「社会主義革命」論をふりかざして、60年安保闘争では無謀な国会突入作戦で犠牲者まで出すに至ります。その隙に共産党は全学連の指導権を取り戻そうと分裂工作に着手。60年安保闘争が一段落した7月に全国学生自治会連絡会議(全自連)を結成し、党の指導力の回復に当たります。これが代々木系全学連です。
 そして党勢拡大のために機関誌の「アカハタ」拡大路線と、さらに七党大会時には2千数百名の勢力しかなかった民主青年同盟(民青)の育成に力を注ぎます。安保闘争を徹底的に利用して宮本独裁体制の確立を巧妙に図っていったのです。
 こうした陰湿ともいえる宮本路線に反発したのは、クートペ(極東勤労者共産主義大学=戦前、コミンテルン創設)出身者で、入獄累計20年近くの古強者、春日庄次郎でした。春日は全学連の若手などと一緒になって「一つの敵」論に固執します。しかし、宮本の老獪な切り崩し作戦にあって次第に孤立。ついに万策尽きて36年7月、離党届を叩きつけて党本部から去っていきました。春日は当時、統制監査委員会議長で党最高幹部の一人でした。
 春日とともに中央委員の内藤知周や山田六左衛門、西川彦義、亀山幸三、それに青年学生部長の長谷川浩らが離党しますが、党中央はこれらの離党を受理せず「党と人民の裏切り者」というレッテルを貼って、八党大会直前の7月20日、除名処分にしました。
 とくに東京都委員会は春日と同じ考えの幹部が多数いましたので、除名は相当数にのぼりました。都委員の武井昭夫、芝寛、野田弥三郎、増田格之、片山さとし、安藤仁兵衛らが除名され、こうして除名劇は全国に広がっていきました。
 この春日一派の「修正主義者」達の抵抗を最後に党内の反宮本勢力はほぼ一掃され、同月25日、やっとのことで第八回党大会にこぎつけます。第八回党大会が開かれたのは東京・世田谷の区民会館ですが、それが現在の宮本路線の歴史的出発点となりました。