実録・日本共産党

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―その恐るべき素顔と歴史を探る―
思想新聞より

実録・日共産党

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戦後編30

党内に民主主義なし
学者党員の改革案、一蹴

 70年代半ばの共産党は派手に「民主連合政府」構想を掲げますが、この構想をさらにオブラートに包む必要性に迫られます。いくらこうした構想をぶち上げても日本革命を目指す党綱領を堅持しているのですから、いつかは暴力革命をやるのではないかとの国民の疑念を晴らせなかったからです。

「自由と民主主義」採択したものの…
 そこで1976(昭和51)年7月に第13回臨時党大会を開催し「自由と民主主義の宣言」を採択します。同宣言は共産党が「独立・民主日本はもちろん、社会主義日本に移行した段階でも、勤労者の私有財産は保障される」「国民主権の立場から、独立・民主日本でも、社会主義日本でも普通選挙権にもとづく国会を名実ともに最高機関とする民主主義国家体制が確立、堅持される。反対党をふくむ複数政党制をとり、すべての政党に活動の自由を保障し、選挙で国民多数の支持をえた政党または政党連合で政権を担当する。この議院内閣制(議会多数派で組織)によって、政権交代制は当然維持される」などとうたったもので、宗教や言論の自由の保障など、まさにバラ色の自由と民主主義宣言です。
 こうした数年に一回開催される党大会での宣言採択と党の憲法ともいえる「日本共産党綱領」のどちらが重要か、そんなことは問うまでもないでしょう。しかも自由や民主主義を強調すれば強調するほど、それでは共産党の党内はどうなのか、党内民主主義への疑問が広がります。この疑問を呈したのは、ほかならない共産党の内部から、それも学者党員でした。
 名古屋大学教授の田口富久治氏がそうです。田口教授は共産党が65年に結成した「憲法改悪阻止各界連絡会議」(憲法会議)の代表幹事で『先進国革命と多元的社会主義』を著し、その中で共産党が閉鎖的集団ではなく、国民に向かって“開かれた党”(新しい型の党)へ脱皮することが必要だと次のように力説しました。
 ──共産党が政権が握ると一党独裁になるとの危惧の念が国民の間に強いが、決して根拠がないわけではなく、既存の社会主義国の歴史的現実が示されているとおりだ。日本共産党は複数制を公約しているが、たとえ複数政党制がとられた場合でも、共産党が圧倒的な支配政党としての地位を確立すれば、他の政党が共産党をチェックする機能は著しく弱まることになりかねない。そうなれば支配政党である共産党の組織・運営が“一枚岩主義”では「支配政党の組織的質が国家体制の政治的質を規定」するのは避けられないので、党と国家との癒着による一党独裁の危険が生じる。したがって、日本共産党は一党独裁に陥らないことを国民に信用してもらうためには「自由と民主主義の宣言」で単に将来の決意表明をするだけでなく、今日ただいまから党内での少数意見尊重その他「新しい型の党」をめざして党改革を実行せねばならない──
「隗より始めよ」との説得力のある主張です。田口教授は具体的に5項目の党改革プランを示しました。それは【1】党の最高意思決定機関である党大会で執行部原案に反対する意見が反映される制度的保障【2】各級の党指導機関で党員の多様な意見が反映される公開制などの保障【3】党指導部の交替の政治的ルールの確立【4】党指導機構と並ぶ党統制機構の設立と「権力分立原理」の導入【5】党内民主主義、少数意見の尊重の実質的保障の五つです。

学問を党規律に跪かせる欺瞞
 こうした提言に共産党は応えません。それどころか、田口提言は解党主義だとして痛烈に批判。「『学問研究の自由』の名で党規律を否定することができないことはいうまでもない。学者であっても、党規律の前では特権は許されないのであり、『研究発表』や『学術論文』であっても党員としての責任をとらなければならない」(「赤旗」78年9月10~11日付=榊利夫・党理論委員長)とし、79年1月号の「前衛」には14万4千語、実に100頁にわたる不破哲三書記局長の反撃論文を掲載し田口教授の提言を退けます。
 共産党の独裁体質は不変であることを見せつけたわけです。