実録・日本共産党

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―その恐るべき素顔と歴史を探る―
思想新聞より

実録・日共産党

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戦後編34

革新自治の負の遺産
都庁で露骨な「赤旗」拡大

 1987(昭和53)年四月に「革新の灯台」といわれた京都共産府政と横浜革新市政が相次いで崩壊し、保守が首長を奪還。翌79年には東京都と大阪府で革新自治体に終止符が打たれることになります。
 敗因は共産党の横暴にあります。その一つは与党・共産党が職員組合を支配し「赤旗」購読を強要し、自治体をして住民を忘れた「組合天国」と化したこと、第二は73年のオイルショック後の低経済成長時代に対応せず相変わらずのバラマキ行政を繰り広げたこと、などがあげられます。いずれにしても住民不在の革新自治体の正体が暴かれたからです。
 美濃部革新都政は3期2年続きました。都議会のある議員は美濃部都政について一期目を「言葉巧みな実のない対話の都政」、二期目を「東京エゴイズムの参加の都政」、三期目を「財政敗戦戦争」と命名しました(79年2月都議会、近藤信好議員)。美濃部氏は当初「物価の美濃部」とか「対話の美濃部」、あるいは「福祉の美濃部」とマスコミにもてはやされましたが、それは高度成長の絢爛期で公害や弱者救済が社会的要請となりつつあったからです。そして、国に先駆けて老人福祉ができたのも高度成長による都税収入の急膨張に支えられていたからです。
 しかし、現在の道路渋滞地獄をもたらしている元凶が美濃部都政といわれるように、道路の新設や拡張予算は12年間でまったくの横ばい。都市計画道路の完成率は七九年段階で39.7%で就任時の31.2%から8.5%という低い伸びにとどまりました。
 美濃部知事は「住民参加と対話」の美名のもとで一人の反対があれば公共工事をしないという「橋の哲学」を掲げたため、道路や再開発などの都市改造や清掃工場の新設がほとんど進みませんでした。住民エゴがぶつかり合う大都会で「橋の哲学」を振りかざすことは何もしないというのも同然です。
 そして73年のオイルショック後は救いがたい財政危機をもたらしました。都の職員組合(都職労)は共産党が牛耳り「組合天国」「公務員天国」(都庁が丸の内にあったので「丸の内天国」とも称された)となったので過度の人員増と組織機構の肥大化をもたらしたのです。
 都の一般行政職員(教職員、警察官、消防関係を除く)は美濃部都政がスタートして以来、増加の一途を辿り、74年には36%増の8万4千余人に肥大。とりわけ幹部職員は2386人から78年には3919人と、実に1.6倍、1500人も増えました。局長級2.3倍、部長級2.1倍、課長級1.5倍という内訳で局長・部長ポストを乱発したことを浮き彫りにしています。
 しかも一般職員には水道・下水道局職員には業務手当、主税局職員には税務手当、清掃局職員には調整給といった具合に特別手当をばらまきました。これは税務職員は税金を取り立てにいって嫌な思いをするから特別手当といった類のもので、根拠のない手当ばかりです。
 共産党は都庁内で手当たり次第に「赤旗」を拡大しました。「赤旗」を購読しない幹部職員は上(知事サイド)からと下(組合サイド)から、そして横(共産党都議団)からから攻めたれられ、出世街道から脱落していきました。その結果、幹部職員は都職労の言いなりとなり、規律は乱れ汚職事件が続発しました。
 こうした実情は大阪革新府政も同様でした。黒田知事のもとで「赤旗」が府庁の机上にあふれ、あまりのひどさに副知事の岸昌氏は「共産府政の犠牲者は私一人で結構」との言葉をたたきつけて辞職。ちなみに岸氏は79年4月の大阪府知事選で共産候補を破って当選します。
 77年度の都道府県決算で実質赤字に陥ったのは結局、東京都と大阪府だけでした。人気取りのばらまき行政の結果です。東京都はこの年、550億円の特例地方債が認められなければ赤字再建団体に転落する事態に陥り、膨大な借金を抱えてついに革新都政は都民からノーを突き付けられたのです。
 こうした東京都と大阪府の共産自治体が崩壊していきました。