実録・日本共産党

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―その恐るべき素顔と歴史を探る―
思想新聞より

実録・日共産党

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党内では除名・査問劇 宮本は自己批判
スターリンの支持で党統一

 1950(昭和25)年以降に共産党は次のように推移してきました。
 ――野坂批判、中央委員のレッド・パージ、朝鮮戦争勃発、四全協・五全協の軍事方針決定、五一年綱領の採択、そして各地での武装蜂起――
 こうした一連の事件が生じていた時、その裏面ではいかなることが行われていたのでしょうか。飯塚繁太郎著『日本共産党』によれば、それは次のようなものです。
 50年6月、レッド・パージで地下に潜った徳田球一ら主流派(所感派)に対抗して、地上に残された宮本顕治、袴田里見らは7月、国際派の全国組織として「日本共産党全国統一委員会」を結成、「新しい情勢と日本共産党の任務」とのテーゼをつくりました。
 これに対して中国共産党は「人民日報」を通じて、「いまこそ日本人民は団結して敵にあたるべきである」と統一を呼びかけ、全国統一委はこの勧告を受けいれて、さっそく同組織を解散して主流派に合流しようとし
ました。ところが主流派は逆にかさにかかって統一委派を次々に除名。復党を希望する者に対しては一人一人、自己批判書を持参するよう要求する高圧的態度に出ました。
 そのため、組織には組織でと国際派は同年12月、再結集して「日本共産党全国統一会議」を結成。各都道府県、地区毎にビューロー(機関)と細胞組織を持ち、『党建設者』『民族の星』などの機関紙、理論誌『理論戦線』などを発行。傘下に一万以上の党員を集め、まさしく「もう一つの日本共産党」であったといいます。
 一方、地下潜行9幹部のうち徳田は健康を害して同年9月頃、北京に脱出(53年死去)。主流派の実権は伊藤律と志田重男が握りました。彼らは51(昭和26)年2月の四全協で「分派主義者に対する闘争に関する決議」を採択。徳田は北京で毛沢東、さらにモスクワに飛びスターリンと会談し、主流派へのソ連の支持を取りつけました。
 同8月10日、コミンフォルムは機関誌に四全協の「分派党争決議」の全文を掲載、モスクワ放送で「日本共産党の統一回復」を迫りました。これには統一会議派も屈服せざるを得ませんでした。
 スターリンは徳田を通じて「日本革命についての新綱領」を送ってきました。これは「スターリン綱領」と呼ばれ、すでに述べたように五全協で採択された「五一年綱領」の原本になったのです。党主流は統一会議派に、この新綱領の承認と自己批判書の提出を条件として復党を許すと呼びかけます。
 そこでまず春日庄次郎らが折れ、最後に宮本も自己批判書を提出。統一会議は解散されたのです。しかし、その後も統一会議はすぐには復党を認められず、宮本が指導部への復帰を認められたのはようやく54(昭和29)年末になってからのことです。
 ところで51年9月8日、第三次吉田内閣はサンフランシスコ平和条約と日米安全保障条約を締結。52年4月28日に平和条約が発効となり、日本は正式に独立するようになります。吉田政府は先のマッカーサー指令を固執せず、その直後、5月1日から『アカハタ』の復刊を公認しています。この政府の温和な姿勢をよい事に共産党は五全協の軍事方針決定に従って、26年末から27年夏にかけて、すでに述べたように全国的な武装闘争を展開したのです。

「リンチ事件」が再び党内で
 その間、地下の党組織では、伊藤と志田とが激しい指導権争いを行ない、ついに志田が勝利し、52(昭和27)年9月21日付の『アカハタ』で、党中央組織は伊藤律を「スパイ、反党的、反国民的裏切りもの」との罪名のもとに除名処分しました。
 その後、伊藤の消息は全く不明になります(中国に渡っていた)。この伊藤の除名後、さらに98人が除名、47人が活動停止の処分を受けています。この間、共産党内では「スパイ摘発」が猛烈な勢いで行われます。党内では次から次へと査問事件、すなわちリンチ事件が起こります。
 まさに戦前の宮本リンチ事件の再来です。