実録・日本共産党

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―その恐るべき素顔と歴史を探る―
思想新聞より

実録・日共産党

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戦後編33

袴田前副委員長を除名 リンチ殺人事件が白日に

 1978(昭和58)年1月、共産党は袴田里見前副委員長を除名します。その直後、袴田氏は「週刊新潮」(2月2日号)に「リンチ殺人事件」の真相をあばく手記を発表し、共産党の独裁体質を暴露しました。
 この袴田除名――手記発表の共産党をめぐる騒動は国民に大きな衝撃を与えました。なにせ袴田氏は宮本顕治委員長の女房役として長く副委員長をつとめてきた人物で、戦前から共産党活動を行ってきた「獄中経験」の筋金入り党員だったからです。
 しかも昭和8年に宮本委員長らが共産党内のスパイを摘発するとして行った「スパイ査問」で当時、党幹部の一人だった小畑達夫らを死亡させた「リンチ殺人事件」において宮本委員長とともに共謀共同正犯として有罪判決を受けた人物でもあります。
 その袴田氏が一月初めに突如、共産党から除名されてしまったのです。1月4日付の「赤旗」によると、袴田氏が党批判を始めたのは76年12月の総選挙後で常任幹部会において宮本委員長を突然攻撃、非難したといいます。こうした行為は党中央に反対する自分の同調者をつくろうとする悪質な分派活動に通じる、また野坂参三議長に対するスパイ容疑をでっち上げたことをは許されないとして除名したというのです(共産党は後に野坂氏がスパイだったとして除名している)。
 このような共産党の除名理由には袴田氏が入院していた代々木病院(事実上の共産党直轄)の病室での発言や袴田氏の自宅のお手伝いさんの”証言”まで使われており、いかに共産党が日頃から党員に対して監視活動(スパイ活動)を行っているかを見せつけました。
 そんな中で発売された「週刊新潮」誌上の袴田証言に国民はびっくりしました。袴田氏は「スパイ小畑を殺したのは宮本である。私は、いまはじめて真実を書く。小畑を殺す必要は何もなかったのだ。小畑はあばれはしたけれど、私は両足をしっかりおさえていたし、逸見もいたし、それに眠っていた宮本も木島も加わったのである。何も殺す必要はないし、殺せばあとが大変なことは誰もわかりきっていた。だが、宮本は殺してしまったのである。連日、『赤旗』は私に対して気違いじみた攻撃をくり返しているが、実は私のこの証言を極度に恐れているからにほかならない」と述べました。
 袴田証言は詳細をきわめ、人殺しのシーンは次のように述べます。
「宮本は右膝を小畑の背中にのせ、彼自身のかなり重い体重をかけた。さらに、宮本は、両手で小畑の右腕を力いっぱいねじ上げた。ねじ上げたといっても、それは尋常ではなかった。小畑は、終始、大声をあげていたが、宮本は、手をゆるめなかった。しかも、小畑の右腕をねじ上げれば上げるほど、宮本の全体重をのせた右膝が小畑の背中をますます圧迫した。やがて、ウォーという小畑の断末魔の叫び声が上がった。小畑は宮本のしめ上げに息がつまり、ついに耐え得なくなったのである。小畑はぐったりとしてしまった」

袴田夫人も手記発表で除名処分
 この袴田証言に続いて同氏の夫人である袴田菊枝氏も「週刊現代」(同2月2日号)に「夫を斬った宮本顕治の大ウソ――除名覚悟であえていう」との手記を発表します。当時、同夫人は「共産党を励ます婦人後援会」東京都副会長兼三多摩地区会長の要職にある古参党員でした。
 それによると夫・里見氏は菊枝夫人に対して「あんな者たちが政権をとったら恐ろしいことになるよ。もし一般の人がこの政治はこうした方がいいのではといったら、はがい絞めにされて殺されてしまうよ」と語ったといいます。「あんな者たち」とは宮本委員長を始めとする共産党幹部たちを指すことはいうまでもありません。
 菊枝夫人はこの手記発表直後に除名されます。こうした袴田夫妻の証言と除名は、共産党の民主連合政府がいかにまやかしのものであるかを白日のもとにさらしました。70年代の遅くない時期に共産党が与党に入る政権ができれば大変なことになると多くの国民は危機感を抱きました。