実録・日本共産党

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―その恐るべき素顔と歴史を探る―
思想新聞より

実録・日共産党


スパイ査問でリンチ殺人宮本が断罪叫ぶ

 銀行ギャングなどの武装闘争を行う共産党。そこで当局は組織壊滅をめざして検挙に必死になり、次から次に党幹部を逮捕。党内にスパイがいるに違いない・・こうして共産党の党内リンチ事件が発生していくことになります。


宮本が関与した2件のリンチ
 1932(昭和7)年10月の熱海事件以降、党の中央組織の再編にあたっていた宮本顕治(現名誉議長)や袴田里見(元副委員長)らは、「スパイ」に疑心暗鬼になっていきます。特に翌33(昭和8)年5月初めに中央委員の山本正美と谷口直平が検挙されると、いよいよスパイ潜入の疑いを強めます。
 スパイ摘発に最も意欲的だったのは宮本顕治だったといいます。宮本は中央「アジ、プロ」部長兼『赤旗』編集局責任者で、『赤旗』にスパイ摘発・断罪の指令を書き続けます。これによって共産党内では「輪番リンチ」などと当時の新聞が称した陰惨なリンチ事件が続発することになります。
 スパイと疑われた党員は査問と称してリンチを受け、ついに惨殺されてしまう、それが宮本顕治を主犯とする「共産党リンチ殺人事件」です。
 宮本が直接関与したリンチ事件は二件あるとされています。いずれも同年12月に起こったもので、最初の一件は12月21日の「大串雅雄惨殺未遂事件」です。
 大串は党印刷局のサブキャップでしたが、印刷所など16カ所が検索を受けたことから宮本によってスパイの嫌疑をかけられます。宮本に大串を査問することを命じられた印刷局長の西沢隆二らは、東京都港区赤坂の秘密アジトの地下室に大串を誘って監禁。手足を麻縄で縛ったうえ、ピストルで脅して拷問を続け、ついに「白状」したので地下室に放置しました。
 大串は隙をみて命からがら逃げて事件が発覚することになります。
 その翌日の12月22日、宮本らは党内中枢部に潜入したスパイとして、党中央委員の小畑達夫と同じく中央委員の大泉兼蔵を摘発することにし、東京都渋谷区幡ヶ谷のアジトに誘いました。
 党中央にスパイがいるとの疑念は11月下旬に、野呂田栄太郎が検挙されたことから生じたもので、宮本と逸見重雄、秋笹正之輔、袴田里見が協議した結果、小畑と大泉が官憲と通じるスパイとの結論で一致したのでした。
 幡ヶ谷のアジトは秋笹の住まいで、この二階で23日から査問が始まりました。査問には東京市委員長の木島隆明が加わり、5人で行われました。共産党のいう査問とはどのようなものか、袴田予審訊問調書(第14回)は次のように述べています。

拳銃、斧などを用意し「査問」
 23日にはあまりひどいことはせず、一同で脅したり頭、顔、胸などを平手や手拳をもって殴ったり、足をもって蹴ったりした程度だった。24日の取り調べに当たっては前日より厳しくすることにし、秋笹は用意していた斧の背で大泉の頭を殴ったので、同人の頭から血が出た。
 秋笹は小畑の足の甲に炭団の火を押しつけ、木島は硫酸を小畑の腹にかけた。硫酸は次第にしみ込んだので小畑が苦痛を訴えた。また誰かがキリで大泉のへその上を擦ったので大泉は悲鳴を上げた。我々の査問の態度は真剣にして峻烈だったので小畑と大泉は非常に恐怖し、生命の危険を感じたと思う││
 生命の危険どころか、小畑は翌日ついに殺されることになりますが、共産党の査問とは「問い正す」という次元のものでないことがわかります。もともと宮本らは小畑、大泉の両人が「スパイ」である事実を白状しなかったら暴行の限りを尽くして白状させるつもりで、秋笹のアジトに「拳銃、出刃包丁、薪割り用の斧など」(確定判決)を携えてきていたのです。
 このようなリンチに耐えられなくなった小畑は24日午後2時頃、宮本らの隙をうかがい、逃げだそうとします。しかし、運悪く見つかってしまいます。袴田と逸見、木島が小畑に飛びかかって押さえ込みましたが、「宮本は殺してしまった」(袴田里見の手記『週刊新潮』78年2月2日号)のです。