実録・日本共産党

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―その恐るべき素顔と歴史を探る―
思想新聞より

実録・日共産党


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戦後編 【10】
殴る蹴るのリンチ査問
各地で暴行事件
国会でも論議された査問リンチ

 1952(昭和27)年に共産党は戦前の宮本リンチ事件をほうふつさせる査問リンチ事件を各地で起こします。この戦後リンチ事件は国会でも取り上げられています。
 それは76(昭和51)年9月29日の参院本会議でのことです。当時の稲葉法務大臣は「共産党のリンチ体質というものは治安維持法下だけではないのだ、戦後も残存している。要求があれば資料を提出する」と明言しました。これを受けて同10月1日の衆院予算委員会で公明党の正木良明議員が資料の報告を求め、安岡美穂・法務省刑事局長との間で次のような質疑が行われました。
 安岡局長「戦後におきまして共産党員によるいわゆる部内統制あるいはスパイに対するいわゆる暴力事件というものにつきまして、現在まで当省に報告を受けましたもので有罪判決の確定しておるものは総計4件ございまして、昭和27年の7月に神奈川県下で起こりました事件、あるいは28年の7月に兵庫県下で起こりました事件、それから29年の9月に神戸市内で発生しました事件、それから37年の5月に同じく兵庫県下で起こりました事件で、いずれも不法監禁とか暴力行為等処罰に関する法律違反事件であります」
 正木議員「4件の報告でしたが、重ねてお尋ねします。全部だと時間がかかってしまいますから、一番古い事件と、それから一番新しい事件について内容をご報告いただけますか」
 安岡局長「最初に申し上げました神奈川県下の事件は、確定判決によって裁判所が認定した事実によりますと、元日本共産党であった者に対しまして、共産党の機密を漏らしたということで査問、追及を行い、殴るける、あるいはネクタイで首を絞める等の暴行を加え、さらに同人をアジトに連行してジャックナイフ、木刀で脅迫し、監禁したという事件でございまして、これらの者はすべて判決は確定しておりまして、懲役六月、二年間執行猶予というような判決を受けております。
 それから最後に申し述べた兵庫県下の事件は、これも確定判決によって裁判所が認定した事実によりますると、共産党内の分裂抗争に絡みまして、党員一名を糾弾すべく、地区委員会の事務所におきまして、す巻きにして海に沈めてやろうと脅迫したり、殴るける等の暴行を加えて反党活動の自白を迫り、強いて自己批判書を作成させるとともに、監禁をし、暴行により加療約10日間の傷害を負わせたという事件で、これも確定判決によりまして懲役8月、3年執行猶予等の判決がなされておる事犯でございます」(第七八回国会・衆議院議会会議録第二号)

不破議長もリンチ・査問に関与
 これら4件は確定判決の事件であって、闇に葬られた事件は山ほどあると言われています。
 事実、共産党の元中央委員だった亀山幸三氏(1961年除名)は「代々木は歴史を偽造する」(経済往来社)の中で、50~53年当時に行われた陰惨な共産党のリンチ事件を実名をあげて詳細に語っています。
「この分裂、抗争のはげしかった時期には、国際派党員にたいして所感派による査問・リンチが至るところで行われた。党中央に直属する形では阿部義美、小松雄一郎、宮本太郎、それから中野雪雄などが伊藤律の直接の手先となって、反対派にたいする監禁、査問、暴行の限りを尽くした。黒石純一や大手幹夫、糸園辰雄、その他無数の誠実な党員がどれほど手ひどい罵詈、監禁、中傷、暴行をうけたか」
 さらに亀山氏は次のように言います。
「また1952年以後になれば、国際派との分裂、抗争がなくなるにつれて主流派内でのリンチ・査問が拡大し、大なり小なり全国至るところでそれが行われた。いわゆる第二次総点検運動である。神山茂夫はスパイとかマーフィーの手先とかいわれ、神山派の一人は自殺に追い込まれた。その他にも自殺者はたくさん出ているし、永久に党から離れた同志も数知れずいる。小河内山村工作隊の岩崎も思いつめたまま自殺した」
 こうしたリンチ事件に当時、東大生だった不破哲三議長も関わっていたと言いますから、驚きです。