実録・日本共産党

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―その恐るべき素顔と歴史を探る―
思想新聞より

実録・日共産党

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その歴史と恐るべき素顔を探る
自主独立路線を採択
東京に革新知事誕生
社共統一戦線で革新都知事誕生

 1960年代、つまり昭和30年代後半から40年代初頭の日本共産党(日共)は、中ソ対立、文革などの国際共産主義の嵐をもろに受けて右往左往し、結局、ソ連と対立、そして中国共産党(中共)と対立し、国内において血みどろの闘争の末に、はからずも反ソ・反中共の「自主独立」路線に落ち着きました。追い込められた結果といってよいでしょう。
 共産党は自主独立路線を自慢していますが、とてい自慢できる内容のものではありません。孤立化の果ての自主独立路線なのです。
 66(昭和41)年10月24日、共産党は第十回党大会(十党大会)を開催し、「自主独立路線」を正式に打ち出します。同党大会決議(
は次のような内容です。
 ―九党大会以来2年の党の活動と情勢に照らして、労働組合・農民組合などの基本的大衆組織を拡大強化し、民族民主統一戦線の確立に向かって進む方針をいっそう具体化した。日本革命の展望の中での議会・選挙闘争の意義を強調した。民主連合都道府県・市町村政の樹立と民主連合政府へ向かっての全国的な闘争を推進する。現代修正主義の潮流との闘争の過程で生まれた「左翼」日和見主義=教条主義、セクト主義(中共路線のこと)の本質と特徴を解明し、「二つの戦線での闘争」を押し進め、両翼の日和見主義と結びついた外国勢力の大国主義的干渉を排し、マルクス・レーニン主義とプロレタリア国際主義にもとづく自主独立の立場をあくまでも貫ぬいていく――
 宮本書記長が打ち出した日本革命の展望、つまり民主連合政権を経て社会主義政権を樹立するという二段階革命路線をはっきりと出してきたのです。まずは社会党など反米反安保の党と共闘した民主連合政権をつくり、そののちに社会主義革命をめざすというものです。とにかく党勢拡大が不可欠というのが、自主独立の宮本路線なのです。
 その柱となるのが、地方自治体の首長や議員を確保です。その手段が機関紙『赤旗』で、『赤旗』を宣伝啓蒙―組織―財政の中心に据えました。ですから宮本路線は『赤旗株式会社』とも呼ばれました。その基盤のうえに国会議員をひとりでも多く当選させようというのです。そして社会党と共闘して当面の目標である民主連合政権を樹立しようと企てました。
 この大会までに、党員数は27万、赤旗本紙32万、日曜版118万に激増しました。
 67(昭和42)年1月の衆議院選挙では、得票総数219万(得票率4.8%54万増)、5名が当選。3月には、社会党との間に東京都知事選共闘の協定が成立。これで十党大会で出されていた民主連合都道府県政から民主連合政府へという党の路線の主要な布石が打たれたことになります。
 全国的にこれと同様の工作がなされ、4月の全国一斉の地方選挙前半戦には、全国で22都道府県議に37名、5大市議に24名、東京区議に81名が当選しました。
 そして、首都東京において、東京都知事に美濃部スマイルのソフト・ムードで都民の心を捉え、ついに社共統一候補の美濃部亮吉知事が誕生するようになりました。ここに共産党都政が登場したのです。
 これは民主連合政府のひな型として重要な意味を持っています。共産党は革新自治体を「革命の砦」と位置付けたのです。かつて毛沢東は「農村から都市へ」と革命の道筋を考えましたが、宮本書記長もまた「革新自治体から民主連合政権へ」とのプログラムを考えたのです。

高度経済成長の矛盾を突く
 四月の地方選挙後半戦では、一般市議405名(投票率7.8%)、町村議393名の当選を見、さらに長野県塩尻市長には高砂政郎共産党候補が当選。民主連合市町村政のひな型がまたしても誕生することになります。各級地方自治体議員は改選前より合計272名の激増ぶりでした。
 おりしも日本は急ピッチで進んだ高度経済成長の矛盾が公害などさまざまな形で噴出していました。その矛盾を捉え、共産党は言葉巧みに革命の基盤拡大に乗り出してきたのです。