実録・日本共産党

文字サイズ

―その恐るべき素顔と歴史を探る―
思想新聞より

実録・日共産党

35

戦後編23
共産党の分身、連合赤軍そっくりな
リンチ殺人

 極左過激派が激しい70年安保闘争を繰り広げている頃、日本共産党は「政府・自民党の泳がせ政策」によって過激派が共産党を陥れるために使われているなどと主張し、自分は暴力とは無縁であるかのように装いました。
 しかし、行き詰まった極左過激派の一派、連合赤軍が72年2月、あさま山荘事件を引き起こし機動隊と銃撃戦を展開、逮捕された後に恐るべき大量リンチ殺人をしでかしていたことが発覚すると、いよいよ共産主義の本性が白日のもとにさらされたのです。
 連合赤軍は共産同赤軍派と日本共産党左派・京浜安保共闘(いずれも共産党の分派)が合体して作った組織で、銃砲店や銀行を襲撃する事件を繰り返し、大菩薩峠で大量逮捕者を出すと、孤立化を深め、疑心暗鬼となって仲間14人をスパイとして「総括」して殺し、その死体を山中に埋めました。追いつめられた末にあさま山荘に人質をとって立てこもり、機動隊と銃撃戦を演じ、4人を死亡させたのです。
 こうした連合赤軍の行為は、日本共産党が過去に行ってきた蛮行の集大成といっても過言ではありません。
 それを当時の報道から見ておきましょう。
 まずリンチの概容です。宮本顕治らによるリンチ事件はすでに本欄・戦前編で紹介してきました。連合赤軍の場合は、武装蜂起によって革命を起こそうとする最高幹部・森恒夫らは仲間が次々検挙されるので、同志に懐疑心を抱き、「スパイ」「規律違反」「反逆罪」などで次々に虐殺、死体を山中に埋めました。
 毎日新聞(72年3月8日)は「敵の前での自己批判、転向は、革命に対する犯罪で裏切りである。脱走者、転向者は、反革命と認められたとき、われわれは死をもって追及する」と連合赤軍の主張を伝えています。 これは戦前の共産党によるリンチ人殺し事件とうり二つです。共産党の場合は「(スパイには)革命的憤怒をもって要求する。『死刑だ!』」(赤旗・34年1月17日)とまったく同じことを主張していました。
 連合赤軍は「弁解の余地すら与えられず、おまえのやってきたことは反革命行為だ、といわれ殺された」(毎日新聞・同3月10日)。共産党は「嫌疑ではなく、最初からスパイであることの告白を追及」(リンチを受けた波多然氏=後の共産党中央委員=『火花』67年8月15日)したのです。これまた連合赤軍と同じです。
 また連合赤軍はライフル、ピストル、刃物、アイスピッケル、針金でリンチを加えましたが、共産党はピストル、包丁、斧、細びき、針金(袴田里見・第九回聴取書=35年7月3日)と、これもまたそっくりです。
 その手法は連合赤軍の場合、「数人がかりで両手をしばりつけて自由を奪い、なぐる、けるの暴行を加え」(朝日新聞・同3月11日)「はては火で皮膚を焼き、手足をしばって厳寒の山中にほうり出す」(毎日・同3月10日)といった具合です。これに対して共産党の場合は「短銃と短刀による脅迫、血の適わぬほどの手足の縛りと息のつけぬほどの猿ぐつわ、合着で冬の寒さに数カ月(数日ではない)耐え忍んだ。…焼火箸を額に押しつけて最後の拷問を加えた瞬間、皮膚の焼ける匂いをかきなたら…」(前記、波多然氏)といった具合です。
 そして殺人を公然と正当化しました。森恒夫は上申書で「(同志の死は)革命戦争の主体構築の闘いの中に刻まなければならない」と言い、共産党は「中央委員会は党史上未だ嘗て見ざる最大のプロレタリア英雄主義を発揮して挑発者の二元凶を打倒した」(赤旗・34年1月10日)と述べています。
 そもそも過激派の武装闘争は昭和20年代に共産党が行った火炎ビン闘争をまねたもので、その教科書として共産党が作った『球根栽培法』が使われました。連合赤軍で頂点に達した過激派の蛮行は共産党のまいた種の実りと言えます。