実録・日本共産党

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―その恐るべき素顔と歴史を探る―
思想新聞より

実録・日共産党

16 戦後編3
警察署など襲撃多発「九月革命」唱える

 芦田内閣が昭和電工疑獄事件で瓦解、吉田首班のもとに短期の選挙管理内閣ができ、1949(昭和24)年1月、衆議院の総選挙が行なわれました。
 この時、日本共産党は、社会党の極度の不評の反動も手伝って上げ潮に乗り、300万票近くを獲得、一躍、35名の当選者を出します。これを機に一挙に党勢を拡大しようとして民族資本家まで含めての共産党の拡大強化方針を決定。いよいよ攻勢を強めてきます。2月末には20万人以上の党員を擁するまでに膨張しました。
 2月に第三次吉田内閣が成立。GHQ指令の経済安定九原則(経費の節約・予算の均衡化・徴税の強化・賃金の安定化など国民生活の耐乏を要求したもの)の実施をめざします。3月にはドッジ・ラインが発表され、1ドル360円の為替レートの確立、超均衡予算によるインフレの抑制、賃金・米価の引締め、増税政策の採用など、思い切った政策遂行を迫られます。

投石、殴打で警察官を襲う
 その結果、インフレの抑制と企業の育成には成功をおさめた反面、増税による中小企業の倒産も少なくなく、その虚を衝いて共産党は中小零細企業者を糾合して民主商工会を結成し、反税闘争というかたちで政府との対決姿勢を深めます。
 共産党員や支持者の間では、総選挙での勝利感と東欧・北朝鮮など世界各地での共産革命成功のニュースに刺激され、全国的に革命ムードがみなぎっていきます。そこで共産党は「九月革命」を喧伝し、日本に共産党政権ができた暁には、それまでに共産党に協力した者には大きな権勢を与えるが、反対した者は皆殺しだと脅し、町や村の有力者、警察などには連日、脅迫状が舞い込むという異常事態になりました。
 こうした物情騒然たる世相を背景に、平警察署占拠事件(6月30日)、下山事件(7月5日)、三鷹事件(7月15日)、松川事件(8月17日)など、全国各地で各種の騒じょう事件、列車転覆事件などが相ついで発生。49年後半は、盛りあがる革命気運とそれに対応する占領軍・政府の厳しい規制との対決の中で、いやが上にも緊張の度が高まっていきます。
 当時の共産党は警察官や公務員に対してどれほど暴力をふるったことでしょうか。福島県の平警察署で共産党に襲撃された当時、同署で婦警だった橋本弘子さんは次のように回想しています。
「片手に角材を持つ者、両手に石を握りしめてトラックから飛び降りる者、(平)署の前はみるみるうちに暴徒で黒山となり“ウォー”という喚声と同じくらいに投石が始まったのです。こわれるガラスの音、罵声と怒号を交えた喚声、署の玄関先では、署員がみるみるうちに暴徒に中にひきずられて行き、まるで犬でも叩くようにこん棒で殴打され、倒れたところをよってたかって足蹴にし、これを助けに出た署員も次から次と暴徒の中に引きずり込まれて殴打されるなど、ちょうど餌食に群がる狼を見るようで全く目をおおいたくなるような惨状でした。署の2階には写真班がおりましたので、暴徒はカメラめがけて激しい投石を行い撮影を妨害をしました。投げつけられた石が私の額にも当たりました」(警察庁警備局『戦後主要左翼事件 回想』より)
●写真=平警察署を占拠、所長を軟禁(『戦後主要左翼事件 回想』より)

平和路線でも暴力をふるう
 この事件は、日本共産党福島県石城地区委員会が指導し、約500人の共産党員ら暴徒が平警察署を襲撃、231人が検挙。騒じょう罪が成立し、60(昭和35)年12月に最高裁で首謀者8人の懲役1年~8カ月の有罪が確定しています。
 こうした騒じょう事件は全国各地で同時多発的に起こっているのが特徴です。
 現在共産党は、朝鮮戦争時の火炎ビン闘争(50~53年)は党が分裂している時に一部が起こしたもので共産党そのものの方針ではなかったかのように宣伝をしていますが、こうした騒じょう事件はそれ以前に起こっているのです。共産党がいかに組織的に暴力政党であるかが知れます。