実録・日本共産党

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―その恐るべき素顔と歴史を探る―
思想新聞より

実録・日共産党

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宮本が関与した2件のリンチ

袴田証言
「宮本が殺った」
確定判決で無期懲役
宮本が関与した2件のリンチ

 宮本顕治は現在91歳。この10月に開催される日本共産党大会で名誉議長の座をおり、名誉役員になります。高齢かつ病身。党への影響力は今ではほとんどないと言われますが、現在の共産党のオーナーであり育ての親、また宮本綱領とも称される現路線を敷いた人物でもあり、専門家の中には「宮本共産党」と呼ぶ人もいます。それほど宮本顕治と日本共産党は切っても切り離せない関係にあるわけです。
 さて、その宮本が若き日の1933(昭和8)年12月、同志である党幹部・小畑達夫をスパイの容疑を掛けて凄惨なリンチの末に殺した、というのです。これは共産党の本質を知るうえで看過できない事件です。
 その人殺しの現場に居合わせ、宮本と一緒にリンチに加わった袴田里見元共産党副委員長は手記の中で次のように述べています(『週刊新潮』78年2月2日号)。
「スパイ小畑を殺したのは、宮本である。私はいまはじめて真実を書く。小畑を殺す必要は何もなかったのだ。小畑はあばれはしたけれど、私は両足をしっかりおさえていたし、逸見もいたし、それに眠っていた宮本も木島も加わったのである。何も殺す必要はないし、殺せばあとで大変なことは誰でもわかりきっていた。だが、宮本は殺してしまったのである」
 袴田元副委員長はその犯行の様子をこう証言します。
「宮本は、右膝を小畑の背中にのせ、彼自身のかなり重い体重をかけた。さらに、宮本は、両手で小畑の右腕を力いっぱいねじ上げた。ねじ上げたといっても、それは尋常ではなかった。小畑は、終始、大声をあげていたが、宮本は手をゆるめなかった。しかも、小畑の右腕をねじ上げるほど、宮本の全体重をのせた右膝が小畑の背中をますます圧迫した。やがて、ウォーという小畑の断末魔の叫び声が上がった。小畑は宮本のしめ上げに息がつまり、ついに耐えられなくなったのである。小畑はぐったりとしてしまった」
 こうして宮本が殺したのです。当時の共産党最高幹部たちは、小畑の死体の始末に困り、床下に埋めました。翌年一月に同じくリンチを受けていた大泉謙蔵がこのアジトから脱出し、事件が発覚。床下から小畑の死体が発見されました。

拳銃、斧などを用意し「査問」

 この状況を当時の東京朝日新聞は「小畑の死体には毛糸のシャツ上下と夏用メリヤスの猿又を着けたのみで、肘を折りまげ死体を上向きにして穴に埋め、頭から紫色のふろ敷をスッポリかけて顔を覆ひ、その上に黒色のオーバーをかけて埋めたものである」(34年1月17日付)と書いています。
 小畑の死体解剖部検査記録は、「(小畑達夫の)死体顔面前額部、頭部、胸部、上肢、下肢およびその他に大小多数の皮膚変色部、表皮剥脱、皮下出血、筋肉間出血、骨膜下の出血があり、また頭蓋腔内において鶏卵二倍大の脳膜下出血(22カ所)」など、陰惨なリンチを受けて死亡したと明記しています(立花隆『日本共産党の研究』)。
 この死体を詳しく調べた古畑種基・東京帝国大学教授の「古畑鑑定書」では、暴行と空腹、喝の状態で男子4人に押さえ込まれたための「外傷性虚脱死(外傷性ショック死)」と死亡原因を特定しています。まさにリンチ殺人です。
 宮本顕治は事件発覚前の33年12月26日に逮捕され、38年10月に予審終結、40年4月から一審公判が始まり、19年12月に大審院で無期懲役の判決が下り、20年5月の上告棄却によって刑が確定しました。確定判決は「治安維持法違反、傷害致死、監禁致死、死体遺棄、不法監禁、銃砲火薬類取締法施行規則違反」を認め、無期懲役としたのです。
 以上が「共産党リンチ殺人事件」の概略です。
この事件は72年に連合赤軍によって起こされた「大量リンチ殺人事件」と、うり二つです。共産主義思想がもたらす悲惨な事件であり、共産党がその先例を作っていた事実を見逃すわけにはいかないでしょう。