実録・日本共産党

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―その恐るべき素顔と歴史を探る―
思想新聞より

実録・日共産党

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戦後編・32

告訴で「言論封殺」
独裁体質さらけ出す


東京・代々木の日本共産党本部

共産党は創価学会の取り組み工作に失敗すると、「救国・革新の国民的合意」運動の名の下に「創価学会以外の宗教団体」や中小企業青年、学術団体などとの「対話」運動を全面的に展開、民主連合政府の樹立をめざして統一戦線工作に当たります。微笑戦術です。
 その一方で「創共協定」が破綻したのは公明党幹部らの策動と見なして猛烈な公明党批判に転じ、とりわけ反自民の対抗軸として民主連合政府路線と争うことになる「社公民路線」を警戒し、公明党と民社党攻撃を一段と強めます。
 もともと共産党は同党を批判する勢力に対する「言論封殺」に余念がありませんでした。とくに、宮本リンチ殺人事件に対する論評には、新聞社や出版社に党員が押し掛ける抗議行動を展開。言い分が聞かれないときには日共系弁護士を総動員し、裁判闘争で“言論潰し”に当たりました。
 これが頂点に達したのが70年代後半です。まず評論家の立花隆氏が「文藝春秋」(76年1月号)誌上に宮本リンチ事件の真相をあばく「日本共産党の研究」を掲載すると、共産党は猛然と抗議。さらに「週刊文春」(新春特大号)が「宮本リンチ事件は『反共デマ』か」とのタイトルの立花隆氏執筆記事を掲載すると、その新聞広告を名誉毀損だとして在京新聞各社に広告掲載を拒否するよう迫ります。
 この立花論文を受けて76年1月27日、民社党の春日一幸委員長は衆院本会議における代表質問で「リンチ殺人事件」を取り上げ、宮本委員長の網走刑務所出所(45年)の経緯など同事件の法的処理に関する政府の見解を正しました。すると共産党は春日質問に「リンチ」との表現があるとして、在京新聞各社に「リンチ」という言葉を使わないように働きかけます。新聞社で当初、「リンチ」と表現したのは読売、毎日、東京、サンケイの4紙でしたが、共産党の働きかけを拒んで最後まで「リンチ」の言葉を使ったのはサンケイ1紙だけでした。
 とにかく共産党は自らに都合の悪い批判には徹底して「言論封殺」で臨んできたのです。同党の独裁・独善的体質がもろに現れているといえるでしょう。春日質問の後には他党の政治家の言動を厳しく監視し、告訴戦術を繰り広げました。たとえば、こんな具合です。
 ▽黒柳明議員告訴事件(76年10月12日) 公明党参議院議員の黒柳氏が東京・新宿の体育館で宮本を殺人犯だったと演説したことを名誉毀損で東京地検に告訴
 ▽柏原ヤス議員告訴事件(同10月12日) 公明党参議院議員の柏原氏が東京・練馬の公民館で「殺人をした人がどうして許されるのか」と発言したことを名誉毀損として東京地検に告訴
 ▽玉置和郎議員告訴事件(77年6月8日) 自民党参議院議員の玉置氏が東京・国分寺駅前で「リンチ殺人事件」について演説したことを名誉毀損として東京地検に告訴
 ▽奥野誠亮議員告訴事件(79年4月21日) 自民党衆議院議員の奥野氏が東京・中野駅前で共産党を「人殺し」呼ばわりする悪質な反共演説をしたとして名誉毀損・選挙の自由妨害罪で東京地検に告訴
 このほか中川一郎議員(自民党)、塚本三郎議員(民社党)、中山太郎議員(自民党)など、共産党に告訴された議員は枚挙にいとまがありません。
 共産党の「言論弾圧」の極めつけは、袴田里見元共産党副委員長が共産党除名後の78年1月25日、「スパイ小畑を殺したのは宮本顕治である」と題する衝撃の手記を「週刊新潮」(同2月2日号)に掲載したときでしょう。
 共産党は新聞各社のみならず国鉄、私鉄各社に対しても、党中央委員会名の正式文書をもって「週刊新潮」の広告を掲載しないように圧力をかけます。宮本委員長と共産党への名誉毀損に該当する違法な表現を含む広告を掲載するなの不当との論法で広告潰しにかかったのです。
 これに対して毎日新聞を除く新聞各紙と国鉄・私鉄各社は共産党の圧力を退けて広告を掲載しました。このことによって多くの国民は共産党の「言論弾圧」体質に目覚めることになります。