思想新聞より
実録・日共産党
60
戦後編48
野坂名誉議長を除名
ソ連崩壊で暗部暴かれる
ベルリンの壁が崩壊した後、ソ連・東欧圏は歴史的な動きを見せます。1990(平成2)年に東西ドイツが統一されたのをはじめ東欧共産政権が次々に崩壊、91年にはソ連邦が消滅、ロシア連邦が誕生しました。
日本共産党が自主独立路線をたたえ合ったユーゴスラビアは解体され、その後、ボスニア・ヘルチェゴビナ紛争など壮絶な民族紛争がまき起ります。78年に宮本委員長が自ら訪問し共同声明まで出したルーマニアのチャウシェスク大統領は89年12月、大量虐殺の罪で夫人とともに処刑されました。
このように共産党が高く評価していた東欧共産国がいかに酷い国であったかを白日のもとにさらしたのです。
ソ連共産党の秘密文書発覚
ソ連崩壊によって共産党のもう一つの欺まんが浮き彫りになります。それは野坂参三名誉議長がスータリン治世のソ連で日本人同志を秘密警察に売り渡し、粛清に手をかしていたことです。
ミスター共産党といわれていたのが、野坂参三名誉議長です。イギリス留学中の1920(大正9)年にイギリス共産党に入党し21年にスターリンと会見、日本共産党創立当時から幹部として活動、31年にソ連にわたってコミンテルン(国際共産党)幹部としてモスクワから共産党を指導し、米国や中国を舞台に革命工作に関わった人物です。
戦後は中国から凱旋して共産党の最高指導者になり日本革命をめぐってコミンテルンから批判されたり、火炎ビン闘争での党内抗争にもめげず、宮本体制を支えてきた共産党の最大功労者です。
82年の16回党大会で24年間つとめた議長の座を宮本委員長に譲り、その後は名誉議長という最高名誉職についていました。
その野坂名誉議長が100歳の誕生日を迎え(92年3月30日)、党本部で祝賀会を開いてもらった同じ年の9月、名誉議長を解任され、同12月にはついに除名処分されてしまったのです。党歴70年を誇る、歴史に残す人物を共産党はばっさりと切ったのです。
それはソ連崩壊によって密封されていたソ連共産党の秘密文書が明らかにされたからです。
92年6月、フリーライターの加藤昭氏は旧ソ連共産党文書保管所で、1939年2月に書かれた野坂氏の手紙を発見しました。それは野坂氏からコミンテルン執行委員会書記長に宛てられたもので、山本懸蔵をスパイとする“密告書”でした
山本懸蔵とは今も共産党の党史に刻まれる戦前の伝説的な革命家です。創立直後の共産党に入党しすぐに中央委員になり主に労働運動を指導、28年にソ連にわたり、コミンテルンの下部組織である赤色労働組合インターナショナルの日本代表に就任、野坂とともに日本共産党を指導していました。
その山本を野坂はスパイとして密告していたのです。当時、ソ連では粛清の嵐が吹き荒れていました。スターリンとその配下の秘密警察は誰彼なく「人民の敵」「スパイ」とのレッテルをはり処刑したり収容所送りにしていました。その追及の波は38年にソ連在住の日本人共産主義者にも襲い、次から次に行方不明になっていきました。
そんな時に野坂は山本を売ったのです。保身のためとか女性をめぐる確執とかさまざまに憶測されていますが、野坂はスパイでない山本をスパイであるかのように書いた手紙をコミンテルンに送ったのです。その直後の39年3月に山本は処刑されてしまったのです(『闇の男 野坂参三の百年』加藤昭氏他・文藝春秋)。
野坂を切って潔白を装う
旧ソ連共産党文書保管所からはこの他、共産党がソ連から資金を得ていたことなど多数の秘密書類が発見されました。
野坂の恥部は共産党の恥部でもあります。それが白日のもとにさらされたので、共産党は野坂を切って共産党が潔白であるかのように装うとしたのです。しかし、こうした人物と一体であったのが共産党だった事実は切りようがありません。